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「第一次月山富田城の戦い」尼子氏の追撃に、殿を務めた元就は死を覚悟!
──天文11-12年(1542-43年)

戦国時代の終末期には中国地方の覇者となる毛利氏。だが、その前段階では、出雲国の尼子氏と周防・長門等を支配した大内氏の相克があった。中でも、当主の大内義隆自らが出陣して尼子の本拠・月山富田城を包囲したこの戦いは1年以上に渡る長期戦で、毛利氏ほか諸勢力の多くを巻き込んだ壮絶な戦いとなった。
なお、この戦いは数度に及んでいるが、本記事では天文10-11年(1541-42年)に行なわれた「第一次月山富田城の戦い」をみていく。

合戦の背景

中国地方の二大勢力の狭間にあった毛利氏が、一躍名を馳せたのは天文10年(1541年)吉田郡山城の戦いからである。このときは、毛利氏の本拠・吉田郡山城に尼子氏の大軍を引き受け、大内氏の援軍を受けながら見事に撃退したという毛利元就一世一代の戦いだった。

合戦の経過

この吉田郡山城の戦いで勝利を得た大内義隆は、安芸や周辺国の国人勢力が一斉に大内方になびいたのを機に、尼子氏に決定打を与える手に出た。領国の兵力を総動員して、尼子晴久の拠る月山富田城を攻め落とすべく出陣したのである。

時に天文11年(1542年)の正月のことであった。当主の大内義隆はもちろん、後継者の大内晴持、重臣の陶隆房(すえ たかふさ)、杉重矩、内藤興盛など錚々たる布陣で、大軍の中には安芸の国人衆を束ねた毛利元就の姿もあった。
対する尼子晴久は、前年の吉田郡山城の敗北で領内の支配力が低下している現実を見て、持久戦に近い策で大内軍に備えた。 月山富田城の手前にある赤穴城の攻防戦に時間を費やさせ、その後も野戦で決着をつける戦術は取らず、粘り強い戦いで大内軍に消耗を強いている。

【第一次月山富田城の戦い 月山富田城と周辺マップ】


1月に出兵した大内軍が、ようやく尼子方の月山富田城を囲んだのは10月になってからであった。当時の軍隊の主力は農民で、村の農作業があるため一年を通じて戦場に居続けるのは大変な負担だった。農民の負担はそのまま年貢の未納につながり、大名も農民を長期に拘束する戦は極力避けたかったのである。その事情を押して、月山富田城を囲んだ大内義隆の意気込みは相当なものだったと言えるだろう。

一方の尼子晴久は、長期戦に持ち込んで相手を疲弊させる戦略である。領内各地の家臣に命じ、街道や山道でゲリラ戦を展開して、大内方の補給路を断つ作戦を敢行した。このゲリラ戦は大内方にかなりの損害を与えたと記録されている。

こうした戦況の中で、毛利氏をはじめとする国人衆の士気は下がり、年を越して天文12年(1543年)に入ってからは厭戦気分が大内軍を支配するようになっていった。

4月に入り、出兵から一年半近くになる頃、事態が大きく動く出来事が起きる。吉田郡山城の戦いの後で尼子方から大内方に鞍替えしていた三刀屋久扶、三沢為清、本城常光、吉川興経ら国人衆が調略を受けて再び尼子方に寝返ったのである。彼らは「城攻めに参る」と称して月山富田城に近づくと、すでに寝返りを知っていた籠城兵が門を開け、堂々と城内に入っていったという。このエピソードからも、大内軍の士気が限りなく低下していたことが分かるだろう。

事ここに至っては、大内義隆も包囲戦を終わらせざるを得なかった。5月の初めから大内軍は撤退を開始する。 尼子方の追撃は全方位に渡って激しく、大内軍本隊の家臣に死者が相次ぎ、大内義隆はなんとか帰国出来たが、後継者の晴持は海路で退却中に船が転覆して事故死してしまう。また、毛利元就たちは損害が最も出る殿(しんがり)部隊を任されたため、元就と長男の隆元が自害を覚悟するほど壊滅寸前まで追い詰められてしまった。この時、家臣の渡辺通(かよう)たち7人が元就たちの身代わりとなって討ち死にし、そのおかげで辛くも安芸の国に帰還できたのである。

戦後

この戦いは、大内方の大敗北に終わった。有能な後継者を失った大内義隆は政治への意欲を失い、後に家臣の陶晴賢のクーデターを許すことになる。かたや大勝利を収めた尼子晴久は劣勢を一気に挽回し、失地も回復して尼子氏の全盛期を築いていく。

ただ、両者のいずれものちに毛利家が台頭して自分たちを滅ぼすとは、この時点では夢にも思っていなかっただろう。渡辺通たちの献身が無かったら元就はこの戦いで果て、歴史は全く別の方向へ進んだかも知れない。
元就は通に感謝し、その子渡辺長(はじめ)を末永く重用した。渡辺家は毛利家の大事な家臣とされ、江戸時代になると代々の渡辺家当主が正月儀式の先頭を飾る名誉を与えられている。そして、通たち7人が討ち死にした地は「七騎坂」と呼ばれ、今も語り継がれているのである。


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