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「折敷畑の戦い」毛利氏、大内重臣・陶隆房と決別!
──天文23年(1554年)

折敷畑の戦いと書いて「おしきばた」と読むが、これは現在の広島県廿日市市にある山の名前である。 この山のある地は厳島の対岸にあたり、毛利家が大内氏を滅ぼすきっかけとなった有名な厳島の戦いの際に重要拠点となったことから、折敷畑の戦いを厳島の前哨戦と位置づける見解がある。 また、別々の戦いと考えられていた明石口の戦いと折敷畑の戦いは、近年の研究で同一と見られるようになった。 そのため、明石口の戦いと呼ぶ場合もある。それらを含め、毛利と大内が衝突したこの戦を見ていこう。

合戦の背景

天文20年(1551年)大寧寺の変で大内家が家臣の陶晴賢(すえ はるかた)に乗っ取られると、大内家に与していた毛利家はそのまま陶に従うか、陶と戦うかを迫られる事態となった。

当時の毛利家は大内家と真っ向から戦える国力がまだ無く、恭順を考える当主の毛利元就とクーデターの主犯である陶と戦うべきとする長男の隆元の間で意見が割れている。ひとまず陶に従う姿勢を取りながら、毛利と大内の関係は微妙な状態で推移していった。

天文22年(1553年)、石見の三本松城主・吉見正頼が陶晴賢に対して反旗を翻す。吉見正頼と陶晴賢の双方から出陣要請を受けた元就は、熟慮の末に強大な大内家、すなわち陶晴賢と戦うことを決意することになった。

合戦の経過

天文23年(1554年)5月、毛利は陶の家臣・江良賢宣が守る桜尾城を攻略する。この桜尾城が陶軍と戦う毛利方の重要拠点と位置付けられ、重臣の桂元澄が城将となった。陶方も黙ってはおらず、6月に入り安芸国の佐西郡明石に兵を進めて来た。ここで両軍がぶつかったのが、先に述べた明石口の戦いである。
従来はこの明石口の戦いのあと、別に折敷畑の戦いがあったと考えられていた。しかし、古文書の史料批判から、現在は明石口の戦いこそが折敷畑の戦いであると見なされている。

【折敷畑の戦いマップ】


ともあれ、陶晴賢は家臣の宮川房長に3千と言われる軍勢を預けて、折敷畑へ向かわせた。行軍途中に周防山代の一揆衆らが加わり、軍勢は7千にまで膨れ上がったとされる。対する毛利方の軍勢は、当主元就に長男毛利隆元、次男吉川元春、三男小早川隆景のほか、宍戸隆家や福原貞俊ら重臣たちが総出陣しても約3千程の兵力だった。のちに中国地方に覇を唱える毛利家も、厳島の戦い以前の段階ではまだまだ小勢だったのである。

6月5日、毛利軍は拠点の桜尾城を出陣する。元就と隆元が折敷畑山の東方から、吉川元春が北方から、小早川隆景が南方から、宍戸隆家と福原貞俊は敵軍の背後に回るべく西方から軍を進めていった。
元就は朝駆け、すなわち夜明け前の暁闇に乗じた夜襲を企図していたが偵察戦の戦況を受けて、明るくなった午前中に宮川房長の軍勢に攻めかかっていく。兵数で有利だったはずの宮川方だったが、毛利方に包囲されて戦機を失ったのか、戦いは毛利方の一方的な殲滅戦となった。

戦後

7千人いたとされる宮川方は750人が討ち死にし、その中には自刃した総大将の宮川房長もいた。当時の合戦で兵の一割以上が戦死するのは大敗北と考えられるため、折敷畑の戦いは陶晴賢に大きなダメージを与える結果に終わったと言えるだろう。

大局的には局地戦に過ぎないとも見える折敷畑の戦いは、陶晴賢の求心力を低下させ、反して毛利家の名を高め、翌年の両家の決戦である厳島の戦いに大きな影響をもたらしたのは間違いない。陶を討ち取った厳島の戦いで両家の力関係は一挙に逆転し、大内家は雪崩を打ったように崩壊して、毛利家に滅ぼされるのである。

そして、元就とその子供たちの覇道が本格的に始まっていった。毛利家が大内家から離反するきっかけを作った吉見正頼は、厳島の戦いのあと毛利家の家臣となり、厚い信頼を得ている。

元亀2年(1571年)に元就が死去した時、次男の吉川元春は新当主となった元就の孫・毛利輝元の補佐を吉見正頼に託している程である。天正10年(1582年)まで戦陣にあり、晩年は隠居して長門の領地で亡くなった。また、折敷畑で討ち死にした宮川房長だったが、紆余曲折ののち、房長の孫の平三郎は吉川元春に仕えている。


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