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「忍原崩れ」石見銀山を舞台に繰り広げられた
──永禄元年(1558年)

合戦の経緯

忍原崩れの舞台となった忍原。この地は現在の鳥取県にある石見銀山を確保する上で戦略的には重要な価値を持っていた地であった。かつて石見銀山は、中国地方で一大勢力を誇っていた大内氏が所有しており、大内義興の代のときに本格的な採掘を開始したが、 石見銀山から採掘される豊富な資源は喉から手が出るほど欲しかったのか、やがて尼子氏がこれを狙って争奪戦が展開されることになる。

天文7年(1538年)には尼子氏が石見銀山を攻略した。しかし、その後は大内氏の傘下に入っていた毛利元就が台頭。厳島の戦いで大内重臣の陶晴賢を滅ぼすと、一気に勢力拡大をねらって大内領への侵攻を開始しているが、その過程で弘治2年(1556年)には元就の二男・吉川元春が尼子領である石見国に出陣し、石見銀山を奪取している。

毛利が石見銀山の資源を糧に兵力増強されることを懸念した尼子氏は、まもなく石見銀山の奪回に向けて挙兵することを決めた。忍原の地で毛利方が尼子に大敗した「忍原崩れ」の始まりである。

合戦の経過

石見銀山を奪取することで後々の覇権争いが優位になることを知っている尼子晴久は、備前の国を攻めていた軍勢と自国の軍勢を合わせて2万5千ほどを用意。これに対し、毛利氏は当時収めていた宍戸家の軍勢を含めて7千の軍勢を向かわせた。

尼子の大軍に対し、毛利がわずか7千だったのは、配下に置いた山吹城が山吹という名の通り、その根城が天然の要塞と言えるほどに急な山と岩で覆われていて、簡単に落城させるのが難しい城だったからである。

【忍原崩れ 山吹城と周辺マップ】


毛利方は、山吹城の利点を生かせば7千でも戦えると判断して兵数を揃えず、岩の死角を突いて攻撃と防御を行う天然の要塞の利を生かす戦術を取った。しかし、皮肉にもその天然要塞の利点を生かした戦いは裏目となり、毛利氏は敗北することになる。

尼子氏にとっては、大内氏から奪取することを考えていたため、尼子晴久は長い間山吹城を合戦の舞台にした対大内氏専用の戦闘訓練と戦術を組み立てていた。山吹城周辺の山には高低差が激しい山のポイントがいくつもあり、山吹城の周辺はちょうど中間に位置する高低差になっている。毛利家としては身を守るために頑丈な材料で作られている甲冑が人間の重量に匹敵することはわかっているので、さすがに重い甲冑を着て山吹城よりも高い山を登ることは想定していなかった。そのため、毛利軍は相手が下から上に攻めることを想定して軍を配置。しかし、尼子氏は先述の通り大内家から奪取することを考えていたので、山吹城周辺の地理条件を把握していたのだ。

そこで、尼子軍はあえて重い甲冑を着たまま高い山の山頂付近に上り、その上から重い岩を次々と投下した。毛利家と宍戸家の軍はその強襲に対応できずに7千の軍勢は総崩れとなり、さらに下からの強襲をかけられたことでバランスを失い敗走した。この戦で山吹城は陥落し、毛利家は撤退して山吹城をおさめていた宍戸家の当主と刺賀は自害し、忍原崩れの戦いが集結したのである。

戦後

石見銀山の争奪戦は以後も続くことに。銀山の奪取に成功した尼子晴久は、今後も毛利が戦を仕掛けてくることが分かっていたため、連絡網の構築を行った。毛利方は敗走の連続であり、消耗戦を仕掛けても意味がないと察して時が来るのを待つことにした。 尼子方は晴久の存命中に銀山が奪取されることはなかったが、晴久が急死すると再び毛利軍の攻勢に遭い、永禄5年(1562年)、ついに石見銀山は毛利の手にわたることになる。


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