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「大内輝弘の乱」大内氏の再興をねらうも、あえなく鎮圧。
──永禄12年(1569年)

合戦の背景

安芸国の国人に過ぎなかった毛利家が、中国地方の覇権を握るまでの道のりは容易いものではなかった。 特に中国地方を二分する最大勢力であった大内家と尼子家との対決は壮絶で、下克上の連続だったと言っていい。 両家はともに毛利家によって滅ぼされたが、名門家だっただけに存在感は大きく、滅亡後も残存勢力による蠢動が続いた。 尼子家の再興運動は、山中鹿之助の活躍でよく知られている。

一方、大内家の再興を目指した大内輝弘の乱は著名ではないかも知れないが、一時的にせよ毛利家を苦しめた点では尼子家に劣っていない。平安時代にさかのぼる歴史を持つ大内家の最期の意地を見せた戦いであった。

毛利家当主の毛利元就は、弘治元年(1555年)厳島の戦いで周防長門を治めていた大内家を、次いで永禄9年(1566年)に出雲の尼子家を滅亡させて、一旦は中国地方の覇権を確立させた。
その勢いに乗って、永禄12年(1569年)には北九州へ侵攻を開始。豊前・豊後・筑前などを支配下に置く大名・大友宗麟との全面対決に入る。

しかし、毛利勢が北九州に軍勢の多くを割いたため支配力が弱まり、中国地方では旧二大勢力に思いを寄せる国人たちがざわつき始めていた。これを受けて尼子旧臣の山中鹿之助が主家の一族である尼子勝久を大将に擁し、出雲で反毛利の兵を挙げたのはよく知られているだろう。

大内家でも同様の動きがあった。それまでにも大内旧臣たちの反乱は度々起きていたが、周防長門の中心地である山口の支配を任されていた毛利の重臣市川経好の活躍で、反乱は鎮圧されていたのである。しかし、この時の反乱は背後に大友宗麟がいる点が違った。 自分の領地を攻撃されている宗麟が、対毛利の攪乱作戦として裏で支援していたのだ。

大友家には尼子家の勝久と同じ、盟主に担ぎ出せる大内輝弘という人物がいた。 大内家の内輪争いで大友家に亡命した人物の子で、豊後で生まれ育っているものの大内家嫡流に近い血筋だった。 毛利の攻撃で苦境に立たされた宗麟の命を受け、大友水軍に助けられながら同年10月に周防の秋穂浦に上陸する。 大内一族の来着を聞いた旧臣たちが輝弘の元に集結し、兵力は2000を超える程になったという。大内輝弘の乱の始まりである。

合戦の経緯

大内輝弘らはすぐさま山口へ侵攻を開始した。この時、山口支配の拠点となっていた高嶺城の城主・市川経好は、九州在陣中で留守であり、山口の毛利方は危機に陥る。しかし、市川経好の妻が自ら甲冑に身を包み、僅かな守兵でこれを死守。輝弘は一旦龍福寺(=大内氏館の跡地)に入り、翌日も攻め立てたものの、これを陥落させることができずに戦線は膠着した。

【大内輝弘の乱 関連マップ】


北九州の陣中で尼子と大内の旧臣が蜂起したとの連絡を受けた毛利元就は、状況の重大さを悟ってすばやく撤退を決意する。次男の吉川元春と重臣の福原貞俊に1万の兵を預けて、まずは山口へ急行させた。毛利の援軍が迫ってくるのを知った輝弘軍は動揺し、地域戦で勝利を得つつも陣中を去る者が増えていったという。

吉川元春の援軍が刻一刻と迫る中、大内輝弘は山口の攻略を諦めざるを得ず、最初の上陸地の秋穂浦へと撤退した。ここから海路九州に退く考えがあったと言われるが、既に大友水軍の姿はなかった。毛利家によって駆逐されたのか、輝弘を見捨てて去ったのかははっきりしないが、この時点で海上から逃れる術を失った輝弘の命運は定まったと言っていい。

その後、東へ敗走を続けた輝弘一行は、やむなく浮野峠を越えて周防富海に辿り着いたとき、人数は100人程になっていたという。そして、その先は毛利方の杉元相が待ちかまえていたため、浮野峠の茶臼山へと後退。だが、後ろからは吉川元春軍が迫っており、追い詰められた輝弘は一戦交えるも衆寡敵せずに敗北となった。

こうして輝弘は自刃。彼の首は、防府で元就の首実検を受けた。大内輝弘の乱は、上陸からわずか二週間ほどで終結したのであった。

戦後

この乱を収束させた毛利軍は、そのまま尼子旧臣の反乱軍との戦闘に突入。一年以上をかけながらも勝利をおさめ、中国地方の覇権を奪還した。尼子旧臣の再興運動はその後も続くが、大内家は輝弘の死をもって名実ともに滅亡し、周防長門は毛利家の本拠地となっていく。

大内家には分家があった。はるか以前、足利義満の時代に本家から分かれた家で、遠く尾張に在し山口を姓としていた。この山口家はのちに大名家となり、明治維新まで続いて大内家の命脈を保っている。


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