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「毛利秀包」元就九男。父の武勇の遺伝子を色濃く受け継いだ勇将。

毛利秀包の肖像画
毛利元就の九男として生まれ、大田元綱や小早川元総などと改名を重ねながら、たびたび戦国の一大局面で登場する、知る人ぞ知る戦国武将・毛利秀包。そんな彼の数奇な運命について紹介しよう。

幼くして養子へ、そして人質としての少年期

毛利秀包は永禄10年(1567年)に、毛利元就の九男として誕生。幼名を才菊丸と名乗った。 それから4年後には、元就から備後国の領土と家臣を与えられたが、わずか数カ月後には大田元綱を名乗るようになる。 というのも、備後国内の国人である大田英綱の死去にともない、その遺臣たちに懇願されて後継者となったためだ。

さらに8年が経過した天正7年(1579年)になると、今度は小早川隆景の養子となり、小早川元総を名乗るようになった。 これは実母の乃美大方が、小早川氏庶流・乃美氏の出身であったことによる。元総は養父である隆景には大事にされ、養子になった時点から、椋梨景家や亀門景信など多くの家臣を与えられている。 ところが天正11年(1583年)には、小早川家が恭順を示す意味から、人質として羽柴秀吉の元へ送り出されてしまう。ここにおいて秀吉の1字を賜り、秀包を名乗るようになる。人質とはいえ、秀吉に従いながら武人として戦歴を重ねていった。

豊臣政権下で大名へ

その後も、紀州雑賀征伐や四国征伐などで着実に戦功を挙げ、伊予の大津城で3万5千石を擁する戦国大名となる。さらに天正14年(1586年)に九州征伐が始まると、秀吉に命じられ、養父の隆景と共に出陣。小倉城をはじめ、北九州で拠点となる城を次々と落としていった。ここでの戦功が認められ、筑後3郡7万5千石を領した上、天正15年(1587年)には久留米城を築城し、以後ここを拠点としながら活躍することになる。さらに肥後国人一揆が勃発すると、早期解決を望んだ秀吉により、討伐軍の総大将に任命される。そして望み通りに、約6ヶ月でこれを鎮圧したのだった。この戦果により、中国大陸や朝鮮出兵への拠点基地として九州を位置づけていた秀吉の願望を、一気に実現化することになった。秀吉からの信頼を高めた秀包は、天正16年(1588年)7月には羽柴姓を名乗ることが認められた。また、キリシタン大名として知られる大友宗麟の娘・桂姫を妻としたことから、自らも洗礼を受けてキリシタン大名化した。

天正20年(1592年)になると、いよいよ秀吉は朝鮮への出兵を開始する。前半戦にあたる文禄の役では、秀包は朝鮮・全羅道攻略の際に1500の兵で従軍。大鼓城での攻城戦や碧蹄館の戦いで戦功を挙げ、帰国後は久留米で5万5千石を加増され13万石となり、筑後守に叙任された。そして後半戦の慶長の役でも、竹島城や星州谷城を守り抜き、大いに活躍を見せた。ところが秀吉に実子が誕生したことや、秀吉の死による朝鮮半島からの撤退によって、徐々に秀包の人生の歯車が狂い始める。まず秀吉の実子が生まれたことで、それまで秀吉の養子であった木下秀俊(後の小早川秀秋)を、小早川家の正当な嫡男として迎え入れざるを得なくなった。そのため秀包は押し出される形で廃嫡し、別家を創設せざるを得なくなった上、良き理解者であった養父の隆景も死没してしまう。また秀吉の死は豊臣家そのものを弱体化させ、秀包を関ヶ原の戦いへと導くことになった。

関ヶ原後は改易

秀吉の死後、豊臣家と徳川家の対立が激化すると、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが勃発する。秀包は毛利一族に従い、西軍に加わり参戦。京極高次の籠る大津城を、立花宗茂らと共に攻め立て落城させる活躍を見せた。ところが当主の小早川秀秋による東軍との密約行為や、毛利家の消極的行動で、最終的に西軍は敗れてしまう。秀包もやむを得ず、占領した大津城から撤退せざるを得なかった。戦後、徳川家が覇権を握ると、秀包は改易となった。毛利輝元より長門国内に所領を与えられたものの、自らは大徳寺で剃髪して仏門に入る。それから間もなくして体調が崩れ、慶長6年(1601年)に長門赤間関で病没。35歳であった。


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