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「穂井田元清」穂井田姓を名乗った元就四男。

穂井田元清の肖像画
毛利元就の息子として有名なのが正室との間に誕生した毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三兄弟。このほかにも側室の子が多くいるが、本稿では元就四男の毛利元清、別名「穂井田元清」の生涯をみていくことにする。

毛利の姓を捨てて穂井田姓を名乗るまで

穂井田元清は毛利元就の4男として1551年に誕生した。母親は正室である乃美大方と言われているが毛利3兄弟に対して、元就からの扱いがやや冷遇気味であったので、側室の子ではないかという説がある。

1566年に、後に毛利家の当主となる毛利輝元が元服するに当たり元清も一緒に元服することになった。 2年後の1568年には村上水軍との関係を改善したい元就の思惑によって、来島の村上通康の養女を正室に迎え入れている。 元服後の毛利元清は三村元親らと一緒に立花山城の戦いをはじめ多々良浜の戦いや門司城の戦いに参加、戦果をあげている。そして1572年、桂元澄がなくなったのをきっかけに安芸にある桜尾城を与えられた。1574年には、宇喜多直家と手を結び離反した三村元親を、元春と隆景と一緒に討伐し切腹させている。

こうした功績により猿掛城を預かる城番となり、同時に備中小田郡を中心とする5千貫、もの領地が与えられた。猿掛城には穂田郷という地名があり、城番になったあたりから穂井田姓名を名乗るようになっている。

豊臣家の有力な武将になる

織田信長による中国攻めが1577年から開始されると穂井田元清は、信長勢に寝返っていた宇喜多直家と児島の戦い交戦、撃退している。同年には羽柴秀吉の勢力に包囲させられていた桂広繁の軍勢を元清自らが3,000の兵を率いて出陣して救出に成功。 翌年の1578年におこなわれた上月城の戦いでは、毛利家の末弟である天野元政と一緒に群を率いて、上月城を落城させる様々な武功をたてている。

1582年になると備中高松城で羽柴秀吉と交戦。同年に本能寺の変があったこともあり羽柴秀吉と和睦を結んだ。その後は毛利家が豊臣家に服従し家臣となったこともあり、穂井田元清自身も毛利の軍勢の一翼となり豊臣家の武功を重ねることになった。 豊臣秀吉が九州攻めを開始すると、九州へ向かう途中に元清がいる桜尾城に立ち寄り、さらに厳島神社にも参詣するなど秀吉からの信頼も暑かったことが伺える。 1592年におきた文禄の役では、輝元に代わって毛利軍の総大将として出陣。元清は秀吉の要望に従い出陣中に発見した虎を2頭を生け捕りにして秀吉のところへ送った。

毛利家の腹心として

穂井田元清は1589年になると、毛利家の家臣である二宮就辰と一緒に広島城の築城を開始する。同時に城下町の建設もおこない、自身は普請奉行という役割を務めて様々な指揮をとっている。こうした功績が認められて、1591年には毛利輝元から12000石の領地を与えられた。 広島城を築城する際は城の縄張りづくりなどに苦戦しており、小早川隆景の友人である黒田官兵衛の助けを借りて無事に実現できたという逸話が残っている。 小早川隆景および吉川元春が毛利家を離れて独自の地位を築いていく中で、元清が独立することなく毛利家の年寄筆頭として毛利輝元の補佐をすることになった。また、輝元の子供に男子がいなかったので、元清の長男である秀元が輝元の養子として迎え入れられ、本家の後継者の親戚という栄誉も与えられた。このときに、豊臣秀吉は自身の子である羽柴秀俊を毛利家の養子にしようと画策したが小早川隆景によって防がれている。

生涯を終えるとき

1597年になると桜尾城において穂井田元清は死去する。47歳のことであった。 遺体は洞雲寺にある墓に収められ、妻と一緒に祀られることになった。ここには穂井田夫妻をはじめ、桂元澄夫妻や陶晴賢、友田興藤などのお墓が存在している。 穂井田元清は亡くなる前に同じく病気に伏せていた小早川隆景と「どちらが先に死ぬだろうか」ということを話し、賭け事のようなことをしたという逸話がある。先に亡くなったのは年上の隆景だったが、元清その1ヶ月後に亡くなった。 何故このような賭けをしたのかは詳しくはわかっていないが、両者は親しい間柄にあったためこんな話をしたとされている。


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