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「安国寺恵瓊」乱世において、ひときわ異彩を放った毛利の外交僧

安国寺恵瓊の肖像画
毛利家に仕える外交僧でありながら、豊臣政権の大名でもあるという、非常に珍しい立場だった安国寺恵瓊。毛利家の外交交渉を担い、豊臣秀吉との関係を深めながら、関ヶ原で最期を迎えた恵瓊の生涯とはどんなものだったのだろうか。

使僧、安国寺恵瓊

戦国時代には、「使僧」と呼ばれる人々がいた。文字通り使いをする僧侶のことで、敵国や敵陣に送られ、和議や人質交渉などを担った。ゆえに外交僧とも称される。身分制社会の当時、僧侶は身分から外れた立場と認識され、敵味方の陣営を殺されずに行き来できたのである。現在の外交官に近いが、あくまで現場の担当官に過ぎない。権力を握る立場には、通常ない。しかしここで取り上げる安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)は、毛利家に仕えて使僧から大名にまでのし上がった、非常にまれな人物だ。

安国寺は彼が属していた寺の名で、本名は瑶甫恵瓊(ようほ えけい)という。生年ははっきりせず、天文6年(1537年)とも天文8年(1539年)ともされる。分かりやすく言えば、豊臣秀吉とほぼ同年齢になる。生家も詳らかでない。毛利氏と戦ったことで知られる安芸武田氏の武田信重の子とする説があり、別の説もある。安芸武田氏は毛利家に滅ぼされているので、自分の実家の仇敵に仕えていたのかも知れない。

本能寺の変を予測?

幼少の頃から安芸国の安国寺に入って出家し、修業を積んで京都の東福寺や南禅寺の住持となるなど、高僧への道を着々と歩んでいった。東福寺の僧恵心の弟子になり、この恵心が毛利家と関わっていたため、いつしか毛利家の外交僧の立場で動き始めるようになる。
永禄11年(1568年)の大友氏との戦いでは、これに従軍して戦場で使僧の役割を果たしており、元亀2年(1571年)には上京して室町幕府最後の将軍足利義昭と謁見し、毛利の外交交渉を有利に進めていく。

天正元年(1573年)頃から毛利と織田家の対立が本格化してくると、京都を追放された足利義昭の処遇などを巡って織田家との交渉の前面に立つようになる。この時、織田信長を「高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」と評してのちの本能寺の変を予測し、さらに秀吉の台頭を予言した文書を記したことはあまりに有名だ。

織田家の対毛利作戦を指揮したのが秀吉だったため、両者の間にはすでに交流があった。そして本能寺の変が起きる。

大名僧、安国寺恵瓊

天正10年(1582年)の本能寺の変の時、恵瓊と秀吉は備中高松城の包囲戦で対陣していた。信長死すの報を受けた秀吉は、京都へ一刻も早く引き返すべく毛利との和睦を講じる。担当したのは恵瓊で、息詰まる外交戦が展開されたのち、和議が成立。秀吉は「中国大返し」をやってのけ、明智光秀を討って天下人へと突き進み始めた。

恵瓊はすでに、外交僧の立場を越えて毛利家のブレーンの一員となっていた。恵瓊と秀吉の関係は密接になって行き、毛利家が秀吉に臣従する交渉をまとめてその信任を得ると、秀吉直々に領地を宛がわれる。大名僧となった恵瓊の活躍は、毛利家の範疇を越えて目立っていく。

秀吉の九州攻めの調略の一端を担い、検地の実務にも関わっている。天正15年(1587年)肥後国人一揆の際には毛利家臣を率いて戦場に立ち、天正18年(1590年)の小田原攻めの際には長宗我部元親や脇坂安治と共に下田城を陥落させた。文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵にも出陣している。それぞれの戦いで制札を発給したり敵将を謀殺するなど、その行動は戦国武将そのものである。恵瓊は、毛利家の重臣かつ秀吉の側近、そして高僧という、実に珍しく不可思議な立場になっていた。

高ころびに転んだ恵瓊

めざましい出世を遂げた恵瓊自身が「高ころびに」転んだのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いだった。

秀吉との関係が深かった恵瓊は、当然のように西軍に付くよう毛利家に主張した。しかし毛利両川の一人・吉川元春の跡を継いで毛利家を支えていた吉川広家が、恵瓊に強硬に反対する。両者の対立は関ヶ原当日まで続いた。恵瓊は毛利輝元を西軍の大将に据えるまでは成功したが、広家が裏で東軍の徳川家康と結んでいたため、毛利軍は戦闘に参加せず、西軍の敗退を招いたのだ。

9月15日の当日、3700の兵を率いて関ヶ原にいた恵瓊も、成すすべなく戦場から離脱するしかなかった。 恵瓊は鞍馬寺や本願寺に隠れた後、京都の六条近辺に潜んでいたところを発見され、連行された。家康により西軍首領の一人と断罪され、石田三成小西行長たち秀吉子飼いの武将と一緒に、六条河原で11月6日斬首されている。

歴史的評価は?

先述したように、恵瓊は僧でありながら大名でもある、非常に珍しい立場だった。戦国武将が出家をして僧形のまま戦陣に臨んだケースは枚挙に暇がないが、僧が武将のように戦陣に赴き、まして大名にまでなったケースは珍しい。駿河の大名・今川義元を支えた黒衣の宰相・太原雪斎にしても、僧侶のまま権力の地位に就いたが、重臣であって独立した大名ではない。従来は秀吉政権のレアケースと受け止められてきたものが、近年では別の見方も出て来ている。

恵瓊はあくまで毛利家の家臣という立場で、大名に列せられたわけではないとの説だ。それに対しては反論もなされていて、良質な史料に依拠したそれぞれの学説が戦わされている。いずれにせよ、恵瓊が毛利家で重要な役割を果たしてきたのは見て来た通りだ。 「藤吉郎さりとてはの者にて候」と、本能寺の変の10年前に秀吉の天下を予測した慧眼は、これからも恵瓊の歴史的評価を高めていくだろう。

独特の存在感を放った恵瓊

恵瓊は、毛利家に仕えて外交を担当しながら、ブレーンの一員となり毛利家が豊臣政権に組み込まれる中で重要な役割を果たしていった。僧であり大名でもある恵瓊の立場を巡って学説が戦わされるなど、戦国史に独特の存在感を放った人物であった。


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