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毛利隆元

偉大な父・元就から家督を継ぐも、自身の才覚に自信がもてなかった毛利隆元。そこには大内氏での人質生活も少なからず影響していたようだ。
本稿では隆元の生涯とその苦悩を追ってみる。

【目次】

  1. 誕生~山口での人質生活(1523-40年)
  2. 家督相続と結婚(1540-49年)
  3. 陶・大内両氏の討伐(1550-57年)
  4. 父の隠退宣言と三子教訓状(1557年)
  5. 隆元の最期(1558-63年)

誕生~山口での人質生活

隆元は大永3年(1523年)毛利元就の嫡男として安芸国・多治比猿掛城で誕生した。 幼名は少輔太郎といった。

この年の中国地方の情勢は、大内氏と尼子氏の2大勢力が支配しており、安芸の一国衆にすぎない毛利氏はまさに、その狭間で翻弄された苦しい時期であった。

というのも、元々は大内氏傘下にあった毛利氏だが、尼子氏による安芸国への侵略によって、尼子氏に従属してまもない頃だった。 このため、尼子方の将として戦場では矢面に立たされていたのである。また、一方で毛利当主・幸松丸が亡くなり、重臣らの推挙で家督後継者に担ぎ出された父・元就が家督を相続した時期でもあった。

元就が当主になってからは、大永5年(1525年)に再び大内氏に転じて、安芸と備後の経略が着々と進められていった。

こうした中、天文6年(1537年)に15歳となった隆元は、大内氏とのつながりを強めようという父・元就の政略により、大内義隆のもとに人質として送られ、3年余の期間を山口で暮らすことになる。

このとき、宿老の志道広良や興禅寺住職の策雲玄竜がお供し、山口に着いた後はまもなくして元服式が行なわれ、大内義隆から一字を拝領して「隆元」と名乗っている。

この山口での人質生活は、のちの隆元の大将としての器量に大きな影響を与えることになるのだ。

隆元は大内氏から厚遇され、大内家重臣らとも親交を重ねていったとみられる。
実際、義隆らが催した武術や芸能の会にも招かれており、また、幕府政所執事伊勢氏の庶流である伊勢貞順や大内家臣の江口興郷から武家故実書を贈られている。
ちなみに武家故実書の内容は武家の特定の礼儀・作法等に関するものである。

家督相続と結婚

天文9年(1540年)に18歳となった隆元は、大内氏から帰国を許され、吉田郡山城に入った。

この年、これまで東方に戦力を注いで勢力を拡大していた尼子氏が、ついに毛利攻めを決断し、大軍で攻め込んできた。当初は兵力差で圧倒的不利にあった毛利方だが、大内氏からの援軍などを得て、翌年には尼子氏を撤退させている。(吉田郡山城の戦い)

その後、尼子経久が死没したことを機をみた大内氏は、天文11年(1542年)に尼子討伐に出雲へ遠征。しかし、吉川興経をはじめとする国衆らの裏切り等によって大敗を喫している。(月山富田城の戦い)
この結果、大内氏の権威は失われ、一方で尼子氏が一気に勢力を盛り返すことになった。

上述の吉田郡山城の戦い、または月山富田城の戦いが、隆元の初陣とされているが、いずれかは定かでない。

天文14年(1545年)には母・妙玖が死没。これを機に翌天文15年(1546年)には父・元就が突然の隠居を表明し、24歳の隆元が家督を相続した。
ただし、実権はそのまま元就が握り続けている。真意は家中の不満を減らし、活性化を図るものであった。

これ以後、元就は執権・志道広良に隆元のサポートを要請している。
というのも、元就は厳しい情勢にあった毛利家の存続に危機感を抱いており、大将としての隆元の器量を憂いていたからだ。

元就からみた隆元は、おおむね以下のようなものであった。

  • 何事にも正直。
  • 屋外へ出るのを好まない。
  • 大内氏の人質を経て、山口の文化的環境にのめり込んでいる。
  • 家中の統制や領国支配、軍事に関して稽古が足りない。

天文18年(1549年)には、父・元就が弟の吉川元春小早川隆景を引き連れ、山口の大内義隆のもとへ挨拶に訪ねたが、このときに大内氏の重臣・内藤興盛の娘を義隆の養女とし、隆元に娶らせることに決まったという。
隆元は同行せずに吉田郡山城にとどまっていたが、元就らが帰国すると、まもなくして結婚の儀が行なわれたようだ。

彼女は尾崎局と呼ばれた毛利輝元の母であり、隆元は彼女を深く愛して生涯側室を持たなかったという。

陶氏・大内氏の討伐

天文19年(1550年)、元就は毛利氏家中の緩みや乱れを正すため、井上元兼一族を粛清するなど、家中の引き締めを行なった。

家中統制については隆元も元就とたびたび対策を協議しており、その中で、毛利家中の緩みの原因は、隆元のはっきりしない言動やその場を取り繕うような発言にあるとして、元就から注意をうけている。

井上一族の討伐後、元就・隆元父子は、家中の者ら238名に連署の起請文を提出させて、主家(=隆元のこと)の命令に従うことを約束させている。また、隆元直属の五人奉行(赤川元保、国司元相、粟屋元親、児玉就忠、桂元忠の5人)が設置されている。

天文20年(1551年)には、大内氏内部で重臣の陶隆房(陶晴賢)がクーデターを起こし、大内義隆が討たれる。元就・隆元父子は、事前にこのクーデターに関わっていたとされるが、やがて陶晴賢の態度に疑念を持つようになる。

弘治元年(1554年)になると、元就・隆元父子は陶晴賢との対決を決意。このとき、元就は対決に慎重な姿勢であったが、隆元は「いずれ晴賢は毛利家を滅ぼそうとする」として、家中の年寄衆らを動かして晴賢打倒を主張したという。

弘治元年(1555年)に陶晴賢を滅ぼしたことで知られる厳島の戦いでは、隆元は元就と共に本陣を率いて暴風雨の中で厳島への渡海を決行している。このとき、尻ごみする兵士らを奮いたたせるため、元就の制止を振り切って率先して船に乗り込んだと伝わる。

翌年から弱体化した大内氏討伐を開始し、弘治3年(1557年)には大内義長を滅ぼした。 以後、毛利氏は九州の大友宗麟、石見の尼子晴久というように兵力を2分化し、隆元は弟・隆景とともに九州の大友氏に対応することになる。

父の隠退宣言と三子教訓状

こうした中、同年には父元就が政務から手を引いて隠退し、実権を隆元に譲ろうとする。

しかし、これに対して隆元はひどく狼狽して反対したようであり、以下のように自分の器量のなさを元就に訴えているのだ。

  • 自分は生来、無才覚無器量だ。
  • 自分に毛利領を治めることは難しい。
  • 元就が隠退するなら、自分も家督を5歳の嫡男輝元に譲って隠退する。
  • いっそのこと、自分が死ねば元就は隠退できなくなる。
  • 輝元の代に良くなろうが悪くなろうがかまわない。
  • 毛利家が滅ぶときの当主にはなりたくない。

しかし、数カ月後には当主としての覚悟を決めたのか、以下の条件で元就に申し出ている。

  • 元就は隆元の後見をそのまま続けること。
  • 弟の元春と隆景も毛利氏の政務に加わること。

結局は元就の方が折れ、隆元は安堵したようだ。

こうして元就は隆元・元春・隆景の3子に宛てた教訓状で、毛利氏の永続するために3人が結束することを説いたのである。 これはのちの毛利両川体制の元になるものであった。

隆元の最期

新体制としてスタートした後の永禄2年(1559年)には、隆元は元就との連署で正親町天皇の即位料を献納し、従四位下大膳大夫に任じられると、翌永禄3年(1560年)には安芸の守護にも任じられている。

永禄4年(1561年)には豊後の大友氏が、毛利方の豊前門司城にまで攻めてきたため、隆元は隆景とともに出陣している。

こうした中、元就は尼子氏との和平調停に応じ、翌永禄5年(1562年)にかけて和睦を成立(芸雲和談)させた。なお、隆元は同年に備中・長門の守護職にも任じられている。

その後、元就はすぐさま尼子氏との和談を破棄し、再び出雲国への侵略を開始しているが、永禄6年(1563年)に今度は大友氏との和平交渉を順調にすすめていった。
このため、豊前に出兵していた隆元は尼子攻めに参加するために軍を返すが、軍勢を整えるために安芸国佐々部に滞陣し、家中の和智誠春らに招かれた酒宴の直後、突如急死した。

死因は食傷とも毒殺ともいわれ、隆元の死を知った元就は深く歎き悲しんだという。なお、元就はこの謎の死に疑念を抱き続けたようであり、のちに隆元側近の赤川元保や饗応した和智誠春を誅殺している。


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