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吉川元春:母の実家・吉川氏を継いだ、勇猛果敢な元就次男

中国の覇者・毛利元就を父にもち、弟の小早川隆景とともに毛利両川体制の一角として重きをなした吉川元春。

本稿では元春の事蹟を詳細に追っていく。

誕生~吉川氏の家督相続

毛利元就の次男で知られる元春は、享禄3年(1530年)に誕生。幼名は少輔次郎で、母は妙玖。

当時の毛利氏は、芸備(安芸国・備後国)2か国の経略の途中にあり、大内氏と尼子氏の2大勢力の狭間で翻弄される安芸の一国衆にすぎなかった。
だが、父・元就はそうした困難な状況下で敵対する安芸国衆や尼子氏らと戦い、大内氏傘下の国衆連合の中でも盟主の地位を確立するまでに至っていたのだ。

こうした情勢の下、10歳となった元春は、尼子氏が攻めてきた吉田郡山城の戦い(天文9-10年(1540-41年))で初陣したといい、このとき、元春は周囲の反対を押し切ってまで出陣したというが、定かではない。
天文11年(1542年)に大内氏が尼子討伐に出雲へ遠征したものの、大敗を喫した月山富田城の戦いとの説もある。

元春の元服の儀は、天文12年(1543年)13歳のときに行なわれ、兄・隆元より一字をもらいうけて”元春”と称した。なお、この改名は父・元就が、元春を長男の隆元に従わせる意向があったためとも考えられている。

吉川氏を乗っ取る

やがて元春は、三男の小早川隆景と同様に、元就の養子戦略によって吉川氏に送り込まれることになる。
吉川氏は母・妙玖の実家であり、毛利氏とは緊密な姻戚関係にあったが、当主・吉川興経が月山富田城の戦いのときに、大内氏から尼子氏に鞍替えし、大内・毛利とは敵対関係になっていた。

天文13年(1544年)には元就の異母弟である北就勝に実子がなかったため、元春が後継ぎになる約束があったという。しかし、吉川家中では、当主の興経の振舞いに不信感を抱いた重臣らがクーデターを引き起こし、元春を養子として後継者に迎える案が浮上。
その結果、天文16年(1547年)には興経が隠退、元春が吉川氏の家督相続することになったのである。

元春は同年に熊谷信直の娘・新庄局を娶っているが、これは元春自身が申し出たものだという。

なお、3年後の天文19年(1550年)には、隠退を余儀なくされた吉川興経が元就の手によって実子ともども殺害され、また、隆景が沼田小早川家の家督を継承したことで、いわゆる"毛利両川" と呼ばれる体制の素地ができあがった。元春21歳のときである。

大内滅亡と毛利両川体制の確立

厳島の戦いで吉川隊を率いる

こうした中、天文20年(1551年)に主筋の大内氏が重臣・陶隆房クーデターにより、転覆。隆房は、大内義隆を自害に追い込んだ後に、義隆の養子・大友晴英(のちの大内義長)を擁立して、"陶晴賢" と改名して大内氏の実権を握った。
この事件に関して、父・元就は事前に陶晴賢と結託していたとみられる。

以後、陶晴賢はクーデターの後処理に手を焼くことになるが、その間、毛利氏は陶の従属下で芸備をほぼ制圧していった。
やがて、毛利氏が勢力を伸ばしていくにつれて、陶氏と毛利氏の間には亀裂が生じ、弘治元年(1555年)にはついに両者が決戦の日を迎えることになった。

兵力差で圧倒的劣勢でありながら、奇襲によって晴賢を倒した ”厳島の戦い”である。
この戦いで元春率いる吉川隊は、元就ら率いる本隊に属し、厳島に渡海したのち、先頭に立って背後から晴賢軍を奇襲している。

大内討伐の傍ら、尼子氏牽制を担う

晴賢を討ったとはいえ、大内氏にはまだ晴賢が擁立した当主の大内義長がいたため、毛利氏はすぐさま大内義長討伐のために周防国と長門国の制圧に着手した。

新たな土地への侵略のため、一揆の蜂起も重なって制圧は難航していたが、弘治2年(1556年)に入って、元春は大内討伐とは別のミッション、すなわち尼子氏を牽制する目的で石見国への出兵を命じられた。
元春は出陣して石見銀山の山吹城を陥落させると、その後は翌弘治3年(1557年)まで、1年余り石見にとどまって尼子牽制の役割を果たした。

一方、同年には元就らも大内義長を討って周防・長門を制圧したため、毛利氏の勢力は安芸・備後・周防・長門の4か国+αにまで一気に拡大したのであった。

毛利両川体制、はじまる

大内氏を滅亡させた後、いよいよ毛利両川体制の形成がはじまる。

きっかけは元就が「政務から手を引く」といい、家督を継いでいた長男隆元が自身の器量のなさを不安に感じたことにあった。
そして元就と隆元が話し合った結果、元就は3人に教訓状(三子教訓状)をあたえ、毛利氏を永続させることを第一として結束を強めることを説いた。その結果、元就は隆元の後見を続け、元春と隆景は他家であっても毛利氏の運営に加わる体制が整ったのだ。
大内滅亡から約半年後のことであった。

以後、元春は隆景と共に「毛利両川体制」の一角として、徐々に山陰地方の政治・軍事を担当するようになっていく。

永禄元年(1558年)には尼子に石見銀山を奪われ、毛利両川軍は一旦安芸に退却するが、これをきっかけに石見銀山を巡って尼子氏との戦いが本格化するようになる。元春は翌永禄2年(1559年)に、石見銀山にもっとも近い小笠原長雄の領地を与えられている。
これは元就による石見銀山攻略の作戦であった。

以後、毛利両川軍は石見にたびたび出兵し、尼子氏と攻防を繰り広げたが、やがて九州の大友氏が豊前国へ勢いを増し、毛利方の豊前門司城での攻防戦がはじまった。隆元・隆景は西の大友、元春は東の尼子に対処するという、毛利両川にとって不利な展開となっていったのである。
こうした状況をみた元就は、永禄5年(1562年)に尼子氏と和談して一時休戦とし、石見銀山を守る本城常光を調略で味方につけ、ついには石見一国を毛利の支配下としている。

その後、元就は和談から半年もたたずに一方的にこれを破棄し、今度は尼子の本拠のある出雲国への侵攻を開始した。一方で元春は、元就の命で味方になったばかりの本城常光を粛清している。

なお、翌永禄6年(1563年)には、兄の隆元が突然死したため、のちに毛利家の家督は隆元嫡男・毛利輝元に引き継がれることになる。

尼子を滅ぼし、中国の覇者へ

尼子討伐は持久戦であったが、毛利両川は着々と尼子の本拠・月山富田城にまで侵略をすすめていった。そして永禄8年(1565年)までには尼子の本拠・月山富田城を包囲し、その後は兵糧攻めを行なう展開へ持ちこんでいく。

この間、陣中において元春が1年半あまりをかけて書写した『太平記』四十巻は有名な話である。

永禄8年(1566年)にはついに月山富田城が陥落するが、このとき元春や隆景は尼子3兄弟(義久、倫久、秀久)らを処刑するよう主張するが、元就は尼子を生かして安芸に下向させている。

このように尼子を滅ぼし、中国の覇者となった毛利両川だが、今度は四国・九州への出兵が待っていた。

永禄11年(1568年)には伊予の河野通直が窮地にたたされた際、救援要請を受けた毛利両川は、元春が子の元長、そして小早川隆景、宍戸隆家らとともに3万もの大軍で渡海し、河野氏の救援に成功している。

その後、元春や隆景らは、和談していた大友氏との戦いが再燃したことで休む間もなく九州へ進軍、翌永禄12年(1569年)までに豊前門司城・立花城を奪取。だが、まもなくして撤退を余儀なくされることになる。
というのも、同年には山中鹿之介が尼子再興軍を興して挙兵し、出雲国へ侵攻、一方で九州では大内輝弘率いる大内氏再興軍も挙兵(大内輝弘の乱)したのだ。

元春らは九州から撤退して大内輝弘をなんなく鎮めるが、尼子再興軍とは長き戦いとなるのである。
こうした中、元亀2年(1571年)には、75歳の老齢となっていた父・元就が死去した。

織田政権との戦い

元就の死後も、元春は隆景とともに毛利氏の中枢として当主輝元を補佐していく。

一方でこの頃、室町幕府将軍は15代足利義昭となっていた。
義昭は兄13代将軍義輝が三好三人衆らに殺害された際、京を逃れていたが、その後は幕府再興を掲げて上洛を果たし、三好三人衆らを追いやって将軍の座についた苦労人である。

実はこの義昭を擁立して上洛軍を動かした幕府再興の立役者がいた。それが織田信長である。

幕府の実権は事実上、信長にあった。信長が将軍権力を抑えつけていたためである。このため、義昭は諸大名らを結集し、武田信玄を中心とした反織田勢力を結成していく。
一方、元春ら毛利両川は尼子再興軍を撃退して出雲国を取り戻すが、その東方は敵対する宇喜多氏や浦上氏、さらにその先に信長が控えていた。

元亀3年(1572年)には、宇喜多氏が講和を求めて毛利氏に服属し、毛利の勢力は東に伸びた。 だが、その一方で翌天正元年(1573年)には信長も、信玄の病死をきっかけに一気に反織田勢力を駆逐し、将軍義昭も追放して織田領を一気に拡大させたのだ。

これにより毛利領と隣接するようになったが、この時点で織田と毛利は表向きは敵対関係にはなかった。
実際、同年には追放された将軍義昭の処遇をめぐって会談も行なわれている。しかし、裏では織田領と毛利領の狭間にある地域の国衆を味方に誘う調略合戦があったと考えられている。

天正2年(1574年)になると、元春が平定していた因幡国に尼子再興軍が侵攻しているが、これは信長が裏で糸を引いていたのだろう。

天正4年(1576年)、ついに織田氏と毛利氏の全面戦争が開始されることになる。

きっかけは追放された将軍義昭にあった。彼は信長を排除するために毛利氏を頼り、再び諸大名らにも結集を呼び掛けたのだ。

こうして元春は、輝元・隆景らと相談した上で、信長討伐に加わることに決めた。

以下、織田方との攻防をまとめよう。

  • 天正4年(1576年)7月:小早川水軍が海路から信長の軍船を打ち破り、織田方に包囲された石山本願寺へ兵糧を運ぶ。これが「毛利 vs 織田」の全面戦争のはじまり。
  • 天正5年(1577年)10月:信長に中国攻めを任せられた羽柴秀吉が播磨へ進攻、宇喜多直家の上月城を占領し、尼子再興軍に守備させる。
  • 天正6年(1578年)3月:三木城の別所長治が織田方から毛利方に転じる。
  • 4月:毛利両川総勢3万もの軍勢で播磨へ侵攻、上月城を落とし、尼子再興軍は滅亡。
  • 10月:織田方で摂津有岡城主・荒木村重が反旗を翻し、毛利氏に内応する。

上述のように、はじめは毛利両川が優勢であった。

なお、毛利両川が播磨へ侵攻する際、元春と隆景の意見が対立したようである。
元春は軍を分けて進軍するといい、一方で隆景は軍を一つにして播磨へ進攻すべきと主張。結局、元春が折れて隆景らの軍勢と合流したという。

さて、翌年からは戦局が一変し、毛利両川は苦しくなってくる。

  • 天正7年(1579年)10月:宇喜多直家が離反し、織田方に転じる。
    同じ頃、織田方の攻撃で有岡城が陥落し、荒木村重は逃亡している。また、伯耆では羽衣石城の南条氏が謀反を興す。
  • 天正8年(1580年)1月:秀吉の兵糧攻めにより、三木城が陥落。別所氏は滅亡。
  • 3月:石山本願寺の顕如が織田方と講和し、撤退。ただし、顕如の子・教如は抵抗を続ける。
  • 8月:教如も石山本願寺から撤退。
  • 天正9年(1581年)10月:鳥取城が秀吉の攻撃を受けて陥落。吉川経家が自害。
  • 天正10年(1582年)4月:秀吉が備中高松城を包囲。

備中高松城の戦いでは、毛利両川は救援にむかったものの、同城は既に秀吉の水攻めによって孤立状態にあってどうにもならなかったようだ。
毛利両川はついに秀吉との講和を決意し、和睦に応じた。だが、和睦成立のわずか2日前に本能寺で信長は明智光秀に討たれていたのであった。

この事変を知ると、秀吉は即座に本能寺へ向かって明智光秀を討つが、毛利両川はこの追撃チャンスを見逃している。もはやその余力はなかったのだろう。
一説に元春は秀吉軍の追撃を主張したが、弟・隆景がこれを制止したという。

その後、元春は秀吉の従属下で動くことを良しとせず、同年12月には家督を嫡男・元長に譲って隠退した。

秀吉の台頭と元春の最期

信長死後の織田家の覇権争いは、羽柴秀吉と柴田勝家の対決となった。
このとき元春が勝家を、隆景が秀吉と接触して、天下の成り行きをうかがっていたらしい。

そして天正11年(1583年)に秀吉に軍配があがると、毛利両川は秀吉に以下2人の人質を送っている。

  1. 元春の三男経言(のちの吉川広家)
  2. 隆景の養子となった小早川元総(のちの毛利秀包)

以後、毛利家は隆景が代表として秀吉と親交を深めていったのである。

天正13年(1585年)になると、秀吉は徳川家康を服属させ、四国の長宗我部元親も降して四国平定を成し遂げていた。

元春はすでに隠退していたが、翌天正14年(1586年)には秀吉からの強い要請により、九州征伐の先鋒として出陣することになった。しかし、豊前国へ侵攻して小倉城を陥落すると、まもなく病死した。

ちなみに嫡男元長も九州征伐に出陣したが、翌年に日向国の陣中で病死。その後の吉川氏は元春三男の経言(吉川広家)が家督を相続している。


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