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「防長経略」毛利氏が大国への道を歩む戦い
──天文24-弘治3年(1555-57年)

周防と長門を合わせた言い方が「防長」であり、西国の大大名・大内氏の所領だったその二か国を、毛利氏が攻め取った一連の戦いが防長経略である。本記事では、毛利元就が約2年にも渡って侵攻を進めていった防長経略の全貌をみていくこととする。

合戦の背景

かつての毛利氏は、西の大国だった大内氏の従属下にあった。しかし、その大内氏は天文20年(1551年)に重臣の陶晴賢の謀反によって当主・大内義隆が自害に追い込まれ、陶氏が掌握することに。(大寧寺の変

この政変で新当主として迎えられた大内義長は、九州の大友宗麟の実弟だったこともあり、大内氏の従属下に置かれていた国人衆らが動揺。徐々に離反が進むなど、陶政権は不安定な状態だった。

こうした中、毛利元就は大寧寺の変の際には陶晴賢に協力的だったが、やがて対立していくことになる。そして迎えた天文24年(1555年)10月、両軍はついに厳島の戦いで激突し、ここで元就が陶晴賢を討ち取ったのである。
以後、中枢を失った大内氏は、皮肉にもかつて配下に置いていた毛利氏の手により、一気に衰退の道をたどることになる。

合戦の経過

安寧も休息もなく、敵の隙を突くのが戦国の常である。元就は厳島の戦いの直後から、さっそく大内領への侵攻を開始した。 対する大内軍は守勢に回らざるを得ず、当主大内義長と重臣内藤隆世が本拠地山口を固め、蓮華山城に椙杜隆康、鞍掛山城に杉宗珊・杉隆泰親子、須々万沼城に江良隆宣・山崎興盛、富田若山城に陶晴賢の嫡男陶長房らが籠もり、毛利軍に備えた。

【防長経略 関連マップ】


桶狭間の戦い今川義元が討たれた後、徳川家康を始め多くの家臣が今川家を離れたことからも分かる通り、この時代、リーダーを失った国は脆い。

10月18日、毛利元就の調略を受けて椙杜隆康はあっさりと降伏し、蓮華山城は毛利方となった。鞍掛山城に籠城した杉宗珊と隆泰親子もいったんは調略を受け入れたものの、結局は毛利方との戦いとなった。
毛利軍7千人、杉軍2千6百人とされる籠城戦は毛利軍の猛攻の末、杉親子を含めた1300人の死者を出して毛利方勝利に終わった。(鞍掛合戦)

このとき守兵の半数が討たれるという、稀に見る悲惨さである。大内氏と毛利氏の存亡を賭けた状況だったことが分かるが、こののちも防長経略戦は容赦のない殲滅戦となっていく。

海でも両家の戦いは始まっていた。毛利方の村上水軍が周防の宇賀島を攻撃し、大内方の水軍を壊滅させたのだ。 宇賀島は徹底的に掃討され、一時的に無人の島となったと伝わる。この結果、制海権は毛利方の手に落ちた。そして、周防の玖珂郡では山代地方の一揆勢が頑強に毛利軍に抵抗していたが、翌弘治2年(1556年)の2月頃には鎮圧されている。
こうした戦況と並行して元就は外交戦にも着手しており、大内家の西隣にあたる九州の大友宗麟に使者を送って、後顧の憂いを断とうとしていた。大内家の領地の内、北九州の部分は宗麟が奪い、周防と長門は毛利が獲るという一種の割譲案である。

先に述べたように、大内家の当主大内義長は大友宗麟の実弟であったことから、宗麟が大内家へ援軍を派遣する可能性は少なからずあった。この外交戦の経緯については諸説あって、どこまで現実に機能したかは不明な点が多いが、宗麟は結局大内家の滅亡に際して兵を出していない。むしろ北九州の大内領を接収することに成功しており、この時点で元就と利害が一致していたとは言えるだろう。

ともあれ、毛利軍は大友氏の干渉を受けることなく、防長経略を進めていく。

同年4月から始まるのが、須々万沼城の戦いである。須々万(すすま)が地名で、城が沼城という。 4月はまず元就三男の小早川隆景が、10月には嫡男の毛利隆元が城を囲むが、同城を攻め落とすことは出来なかった。 籠城兵は3千人とも1万人ともいい、その数が多かったことと城の周囲の川をせき止めて水位を上げ、防御用の水堀とした策が毛利方を苦しめたと伝わっている。

弘治3年(1557年)の2月には、元就自らが出陣して1万余りの兵で須々万沼城を囲んだ。 元就は城の背後の道徳山に本陣を構え、隆元は東の権現山、隆景は南側の日隈山に布陣した。

度々の抗戦に業を煮やした毛利方は、水堀に次々と編竹や筵を投げ込んで足場とし、犠牲をいとわず沼城へと殺到していく。 籠城兵も懸命に防いでいたが、毛利方が火縄銃を使用した効果もあって、城将の江良賢宣が降伏、もう一人の城将山崎興盛は切腹して果て、須々万沼城はついに陥落した。城兵の死者数は1,500人とも3,000人余りともいわれている。

毛利方が須々万沼城を囲んでいる間に、大内家では内部分裂が加速していた。陶晴賢の陶氏の本拠地である富田若山城は、同じ大内方の将であるはずの杉重輔に攻められ落城。その直後、今度は杉重輔が大内家重臣の内藤隆世に攻められて討ち果たされるといった具合で、もはや一国の体を成していない有様だった。

毛利方は富田若山城を攻め落とし、そのままの勢いで大内氏の本拠地山口へと侵攻。すでに大内家内部の戦いで焦土と化していた山口は防衛能力を失っており、大内義長と内藤隆世は戦わずして逃亡。そして、同年3月、現在の下関市にある且山城に立て籠もり、最期の時を迎えた。
要害である且山城を落とすのは容易でないと判断した元就は、内藤隆世の忠義心を逆用した策を用いて、まず隆世を自害させ、さらに降伏してきた大内義長にも自害を強要したと伝わっている。

戦後

こうして大内氏は滅亡。防長経略の末に周防と長門は毛利家の領地となり、毛利氏は中国地方を代表する大大名への道を歩み始めることになる。

大内家の家臣たちによる抵抗運動はこの後もしばしば毛利家を苦しめ、完全に鎮圧するまで10年以上の時を費やしている。名門大内家に心を寄せる者が多かったことを物語るが、最期まで大内義長の側にあった内藤隆世の一族は戦国の世を生き残り、毛利家家臣として江戸時代まで続いた。

なお、江戸期にこの周防・長門二か国が毛利家の本拠となり、長州藩と呼ばれて幕末に目覚ましい活躍をするのは周知の通りであろう。


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