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「吉田郡山城の戦い(郡山合戦)」
──天文9-10年(1540-41年)

合戦の背景

吉田郡山城の戦いの主役は毛利氏と尼子氏であるが、元々両者は折り合いが良くなかった。

山陰を中心に広大な勢力を誇る尼子氏と、北九州・中国地方の覇権を確立していた大内氏。この二大勢力の狭間で毛利元就は巧みな外交を行なっていた。はじめ毛利氏は大内氏に従属していたが、毛利家の家督争いが生じた大永4年(1524年)には尼子氏に転じていたようだ。しかし、このとき尼子氏は介入して、元就の対抗勢力となった異母弟でもある相合元綱に肩入れしている。結果的に元就が元綱を討って家督を継いだが、この一件で尼子に対する不信感が生じ、元就は大永5年(1525年)に再び大内氏へと転じている。

その後、尼子氏でお家騒動があったこともあり、尼子と大内の両者は和睦していた。お互いに勢力維持のバランスを保っていたが、天文6年(1537年)に契機が訪れる。同年、尼子氏では尼子詮久(のちの晴久)が家督を継ぎ、一方で毛利氏は嫡男の毛利隆元を大内氏に差し出して関係を強化したのである。

血気盛んな詮久はこれを良く思わなかったようだ。尼子方では、天文8年(1539年)11月に月山富田城で評定が開かれ、毛利討伐を決断したとされている。なお、先代の経久や経久の弟の尼子久幸は、詮久に対して慎重になるように進言するも、聞く耳を持たなかったという。こうして複数回に及ぶ吉田郡山城の戦いが勃発する。

合戦の経過

1回目の合戦では、天文9年(1540年)の6月下旬、3千ほどの尼子軍が備後路から安芸国吉田へ侵入したという。尼子と毛利の戦力は6対4で尼子方が優勢だった。
攻め手の尼子軍は安芸の地理地形を理解しておらず、兵の力を信じてそのまま直進して進軍。ただ、闇雲に進軍しても返り討ちにあうことはさすがに分かっていたため、まず先発隊を作って相手の動向を見極めつつ進軍し、毛利家が陣取っていた吉田郡山城の裏側から戦いを開始したという。

この作戦は尼子氏の進軍の勢いが勝っていたことから順調に勝ち進み、その勢いならいけると考え直進したものの、毛利家も十分に準備をして合戦に挑んでいるので簡単に打ち破れるものではなかった。その結果、お互いが疲弊したところでこう着状態となり、このままでは埒が明かないと軍を撤退させ、このときの衝突は痛み分けになった。(犬飼平の合戦)
なお、この合戦は後世の軍記物に頼っているため、信憑性は低いとみられている。

【吉田郡山城の戦い 周辺マップ】


その後、2ヶ月かけて準備を整えた2回目においては、尼子氏はさらに周辺の武力を結集させて進軍を開始し、戦力は尼子氏が7で毛利は3というほど、毛利氏が不利であった。

到底勝ち目がないと分かった毛利氏は籠城作戦を決行。本来籠城は苦肉の策になる場合が多いのだが、この籠城が尼子氏の弱点を露呈することになる。その弱点というのは、尼子氏の好戦的な意識による自惚れだ。
籠城したことで優勢であることを認識した尼子氏は、近くの村を放火するなど挑発行為に及んだが、元々避難させていたので被害は少なかった。それでも毛利方が籠城をやめなかったことから敵は弱気になっていると錯覚し、自身の軍勢を吉田郡山城に押し進める。ところが、待ってましたと言わんばかりに返り討ちに遭い、あえなく押し戻される結果になったのだ。

この戦術で毛利氏に撃退を許したことが尼子氏にとって運の尽きとなる。それは尼子方は猪突猛進で突っ込んでくるだけで、圧倒的人数の有利を生かす思考を持ち合わせていないということを露呈することになったからだ。 毛利方は尼子軍の戦術が全く成っていない事を逆手にとって戦えば良い。7対3という戦力差は意味をなくしたことになる。

毛利方の戦法は、ある程度の人間を進軍させるがあくまで陽動でわざと敗走し、相手に勢いづかせて進軍してきたところを直進方向の両サイドに待ち伏せしていた自軍の先鋭で強襲をかけるというものであった。尼子の7あった軍の数は半分を失う結果になり、本来はこの敗戦で戻ればよかったのだが、好戦的な意識が災いする。残った戦力を風越山にかき集めて準備を整える手段を取るが、ここでも間違いを犯してしまうのだ。

本来であれば数が拮抗し始めているため、ゆっくりと進軍して後方を取られないようにするのが定石なのだが、これまでの敗戦で余裕が無いためかそのまま直進してしまう。当然ながら余裕がない相手をあしらうのは簡単でその後方に軍を配置し強襲、これによって前と後ろから攻められた尼子氏は撤退した。

撤退後は地元に戻り、勢力をある程度回復させて何度も進軍したが軍の指揮は下がり、求心力も落ちたことで戦いの続行は不可能となり、吉田郡山城の戦いは終結したのである。

戦後の影響

尼子氏は合戦の失敗で疲弊し、大半の兵と求心力を失ったため家の存続自体が出来なくなり、好戦的だった尼子氏も敗戦のショックと戦いの疲労で病気にかかり命を落とした。その後、毛利は尼子氏の残りの軍を強襲しようとしたが、大内氏に武士の情けをかけてほしいと言われ進軍を取りやめることになる。ただこの戦によって数の勢力差を埋める戦術が世間に広まり、毛利氏は現在の広島県と岡山県を納める一代大名として長い間君臨することになるのである。


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