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「厳島の戦い」まさに下剋上!元就の謀略で大軍の陶氏を撃破!
──天文24年(1555年)

戦国最高の知将・策略家として知られ、常に合戦人生を歩んできた毛利元就。その合戦の中でも戦国の日本三大奇襲戦の一つに数えられ、元就が陶氏に奇跡の勝利を収めた「厳島の戦い」は必見だ!

合戦の背景

この戦いの前年にあたる天文23年(1554年)、安芸国の毛利元就は周防国を治める大内義長陶晴賢と防芸引分により関係を断絶し、元就は大内勢力を安芸国より排除した。その流れの中、元就は次に迫る陶晴賢との戦いに備えて広島湾周辺や水軍の守りを固め、厳島までをも占領する。軍勢としては小規模だった毛利は、大軍を率いる陶晴賢に対して厳島への誘い込みを計画、平坦ではない島の地の利を活かし一気に陶の大軍を叩こうという大胆な作戦に出たのである。

決戦前の元就の数々の謀略とは?

決戦を前にして、元就は事前に様々な調略をしかけていたようだ。

古くより瀬戸内海で活動し、のちに毛利水軍の一翼を担ったという村上水軍(海賊衆)。元就はその中で三家に分かれる村上水軍の一つである来島村上家と、この頃に姻戚関係を結び、友好関係を築き上げている。この水軍が厳島の戦いにおいても重大な役目を果たすことになる。

また、同年9月10日には、大内氏・陶氏に豊前国・筑前国を奪われた九州北部の大名・少弐冬尚に対し、陶氏への牽制を目的とした密書を送り、挙兵を促している。

さらに翌天文24年の2月には、陶家臣の江良房栄と内通し、結果的に江良は誅殺されている。
江良房栄はかねてから元就の力量を知っており、主君の陶晴賢に対して毛利家との和睦を進言していたが、元就は300貫という破格の条件で彼に内応を承諾させたとみられる。しかし、その後に江良房栄が条件の上乗せを元就に要求してきた為、元就は江良との内通交渉の情報を大内氏側に流し、その結果、江良房栄は陶氏に処刑されたということである。

このほか、毛利家の重臣・桂元澄に偽装内通をさせたというエピソードもある。桂元澄はかつて元就が家督を継いだ時、元就と敵対した過去があった。元澄は陶晴賢に内通を申し出る密書や起請文を送ったとされるが、これは元就が命じたものだという。寝返りのフリをさせて毛利方の求心力低下を見せかけることで、敵の油断を誘う作戦だったのだろうが、このエピソードの真偽はわからない。

元々軍事拠点としては優れた場所ではなかった厳島に元就が誘い込んだ理由としては、平坦ではない場所であることから大軍が一気に攻め込んできても動きやすくない為、迎え撃つのに適しているというものだったが、陶晴賢も元就が無策でいるとは到底思わず警戒をしていた。

合戦の経過

9月21日、陶晴賢が2万余ともいわれる大軍で岩国から出陣。玖珂郡の今津・室木の浜から500艘の船団で出港し、海路で厳島へと向かい、翌22日の早朝に上陸。

一方の毛利軍も、24日に陶軍の厳島上陸を知って佐東銀山城を出陣し、水軍の基地でもある草津城に着陣した。元就・隆元率いる毛利軍本隊には、吉川元春隊のほか、熊谷氏・平賀氏・天野氏・阿曽沼氏などの安芸国人衆、さらに水軍を率いる小早川隆景隊も加わった。

28日、元就は草津城を出て、地御前に全軍を前進させ、30日には軍勢を三手に分かれて厳島に渡海する準備を行った。

【厳島の戦い 関連マップ】


決戦となった10月1日

10月1日、毛利軍は打倒陶氏の最後の作戦を決行した。当日は暴風雨であったと記録されている厳島へ毛利軍は船を出し上陸。元就と隆元の新旧当主は島の裏手へ、元就の三男・隆景は島の正面へと嵐に紛れて上陸し、味方のいる宮尾城へと向かった。この時、あまりにも雨風が激しく敵味方すら分からない程であった為、上陸した隆景が「自分は陶軍に加勢に来た」と嘘をついて通ったという逸話も残されている。

厳島への侵略を始めた陶軍は、当初は多勢による勢いがあり、宮尾城を陥落させる為に水源を断ち、島の広範囲に布陣を置くことに成功した。しかし合戦当日、毛利軍の奇襲が始まると勝敗が決するまでに時間は掛からなかった。正面から迎え撃つ隆景の軍団と島の裏手より陶軍を挟み込むように現れた元就・隆元の軍団に囲い込まれた陶軍に成す術はなく、逃げようとする陶軍の残党は、海上で毛利軍の一団として援軍に来ていた村上水軍に次々と沈まされていく結果となった。

敵方の陶晴賢はこの結果を受け、島内を敗走する事となり、岸に着けていた船を頼りに海側(大江浦)へと向かったがその全てが出払っていたか、焼き払われ壊されていた。その後、覚悟を決めた陶晴賢はこの大江浦で側近の介錯により自刃する事となった。

戦後

この戦いは毛利軍約4千に対し、陶軍は約2万~3万と圧倒的な軍勢の差を、元就の類まれな策略と水軍の扱い方で勝敗を決した戦国史でも稀に見る合戦であった。陶晴賢を失った陶軍(陶氏、大内氏)は急速に弱体化していくが、反対に毛利軍は水軍への自信を強め、元就直轄の水軍の育成へと乗り出した。この戦いにより成長した毛利水軍はその後、織田信長との戦いにおいても重大な役目を背負う事となる。


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