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「足利義晴」管領細川家の内紛に翻弄された室町幕府12代将軍。

足利義晴の肖像画
細川や三好に翻弄され続け、何度も都落ちを経験した12代将軍の義晴。将軍でありながら多くの合戦も経験しており、その中で巧みな外交家としての顔ものぞかせている。

政権の混乱期に誕生。11歳で将軍職へ

足利義晴は永正8年(1511年)の3月に近江国で生まれた。父親は室町幕府の第11代将軍足利義澄で、母親は日野富子の姪とされる。幼名は亀王丸。

将軍の長男である義晴が京ではなく、近江で生まれたのにはワケがあった。 義晴誕生の4年前、管領の細川政元が暗殺されると、管領細川氏(細川京兆家)の家督争いが勃発。これに乗じて前将軍・足利義尹(のちの足利義稙)を擁立した大内氏の上洛軍が押し寄せ、このとき父義澄は京から近江へ逃れていた。つまり義晴誕生当時、父義澄は既に将軍職を義尹に奪われて、近江で再起を図っていたのである。

しかし彼の将軍復帰はかなわず、義晴誕生からわずか5カ月ほどで病没。義尹が室町幕府将軍として京都の支配を強めていく一方で、赤ん坊の義晴は播磨守護の赤松義村の庇護下で養育されていくことになる。一説に将軍義尹(義稙)の養子になったともいわれている。

永正15年(1518年)に義村は家臣の浦上村宗と対立するようになり、永正18年(1521年)には村宗に捕縛されて、最終的に殺害されてしまう。このため、義晴は浦上氏の手に渡るのだが、そのわずか2か月後、管領の細川高国と対立した将軍義稙が対立して京都を出奔したことから、今度は高国に招かれ、第12代将軍として擁立されるのである。

高国政権は崩壊。義晴も都落ち

以後、義稙は再起を図るもかなわず、大永3年(1523年)に没した。ようやく政権も安定期に入るかと思いきや、大永6年(1526年)に高国が家臣の香西元盛を謀殺したことで、政権内部で内訌が勃発することに。そこに高国と対立関係にあった細川晴元三好元長に擁立されて挙兵。翌大永7年(1527年)2月の桂川原の戦いで高国は大敗を喫し、晴元らと彼らに担ぎ出された義晴の弟・足利義維が代わりに畿内を支配することになった。足利義維は次期将軍に認められて「堺公方」と称されている。

この結果、将軍義晴は高国とともに近江国へと落ち延びることになった。その後、義晴は晴元との交渉で一時的に京へ帰還しているが、翌享禄元年(1528年)には状況が悪化し、結局は朽木稙綱の元に身を寄せて堺公方勢力と対立した。

権威が失墜した高国は再起を図り、備前の守護代である浦上村宗とともに反撃にでるが、享禄4年(1531年)に赤松政祐の裏切りに遭って自害となった。(大物崩れ

晴元とタッグ!?

高国の死後まもなく、晴元が義晴と和睦しようとしたことから、晴元政権内部では義維の処遇を巡って不協和音が生じることに。 天文元年(1532年)には、新参者の晴元家臣で下剋上を目論む木沢長政を攻めていた畠山義堯と三好元長が、突如一向一揆軍に襲撃されて立て続けに命を落とす。晴元が一向一揆と手を組んでいたのである。

なお、このときの義維は、後見人の元長が自害したことで自殺を図るが、晴元に制止されている。 晴元政権誕生後、彼が中央政権における事実上の将軍であったが、治安の悪化により、堺から上洛できなかったため、次期将軍とされながらも将軍宣下を受けることが出来なかった。また、政権内部では彼を支持するよりも、義晴との和解を主張する声のほうが大きかったようである。

義晴は天文3年(1534年)6月に近衛尚通の娘を娶り、その後まもなく近江・六角定頼の仲介によって義晴と晴元の和解、京都に入洛を果たす。ここに堺公方は崩壊となり、政権も一旦は安定することになる。

その後も支持勢力を転々…

その後、晴元政権は多くの戦いが勃発するが、政権が強大な力をもっている間は義晴も晴元支持の姿勢を崩さなかった。

天文10年(1541年)には晴元と木沢長政が対立した際は、晴元方として近江坂本に逃れているし、天文12年(1543年)細川氏綱が晴元打倒のために挙兵したときも、晴元を支持している。
しかし、畠山政国や遊佐長教の支援を受けた細川氏綱が天文15年(1546年)の8月に挙兵し、晴元が丹波国へ落ち延びると、まもなくして義晴は氏綱支持に転じた。しかし、晴元の重臣の三好長慶の弟たち、すなわち三好実休安宅冬康、十河一存ら四国の軍勢が上洛すると、徐々に形成が苦しくなっていく。

こうした中、同12月には11歳となった嫡子の菊童丸(のちの足利義輝)に将軍職を譲っている。これは義晴自身も11歳で将軍となったことが影響しているものとみられる。以後は大御所として菊童丸の後見人となった。

巻き返しを図る晴元・長慶軍は天文16年(1547年)4月には近江守護の六角定頼からも援軍を得て勢いを増し、同7月には舎利寺の戦いでついに氏綱軍が敗退。氏綱に加担した義晴も近江坂本に落ち延びた。ただし、義晴はその後まもなく晴元と和睦して義輝とともに京に戻っている。

天文18年(1549年)には、今度は晴元と三好長慶が対立関係となり、義晴は晴元を支持した。しかし晴元が江口の戦いでで長慶に敗れたため、義晴・義輝父子は晴元とともに近江朽木谷に逃れた。義晴は京都を奪還するために銀閣寺の裏山に中尾城を建築し始めるが、この頃から病が重くなっていき、天文19年(1550年)に近江国穴太で病没となった。享年40。『言継卿記』や『厳助大僧正記』によると死因は悪性の水腫とされる。


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