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「永正の乱」関東・北陸における永正年間の一連の争乱
──永正年間(1504-21年)

関東・北陸地方で永正の乱(えいしょうのらん)と呼ばれる一連の戦乱が発生しているが、複雑なために以下4つに分けてまとめる。

その1:越後国の下剋上

永正3年(1506年)9月、一向一揆が盛んであった隣国の越中。これを抑えるために越後守護代・長尾能景が出陣。しかし、味方の武将の裏切りによって能景は戦死、子の長尾為景が家督を継いで越後守護代となる。
この状況においても主家の越後守護・上杉房能は援軍をださなかったため、父を亡くした為景は憤り、翌年の謀反につながっていく。

永正4年(1507年)8月、為景は上杉定実を傀儡として擁立し、主家の上杉房能を襲撃。房能は兄である関東管領の上杉顕定を頼って関東への逃亡を図ったが、これを追って途中で自害に追い込んだ。

永正6年(1509年)には顕定が弟の敵討ちのために報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって一旦は佐渡への逃亡を余儀なくされた。しかし、翌永正7年(1510年)に再び越後へ上陸すると、高梨政盛(為景の外祖父)の助力を得て顕定を討ち取るのであった(長森原の戦い)。

その2:山内上杉家の家督争い

山内上杉家は顕定が戦死した永正7年(1510年)、養子の上杉顕実が家督を継ぎ、関東管領職に就く。しかし、同じく養子の上杉憲房はこれに黙っておらず、横瀬景繁(よこせ かげしげ)・長尾景長らの支援を受けて家督を争う姿勢をみせた。

こうして、山内上杉家は二分。さらに複雑なことに、同じ頃に古河公方でも2代目古河公方の足利政氏と子の足利高基が対立しており、山内上杉家の家督争いに絡んでくる。
顕実は兄の2代目古河公方・足利政氏と、そして憲房は足利高基と組んで関東全域を巻き込んだ争いに発展。一方でこうした中、扇谷上杉家当主・上杉朝良が影響力の復活を図って仲介に動くも失敗している。

永正5年(1512年)には憲房が家督争いに勝利し、敗れた顕実は当主の座を失って兄の政氏を頼って古河城へと逃亡となった。そして、永正8年(1515年)には顕実が病死し、関東管領職も憲房のものとなる。

その3:古河公方の家督争い

理由はよくわからないが、2代目古河公方・足利政氏と嫡男の高基が対立し、永正3年(1506年)には高基が義父の宇都宮成綱を頼って下野宇都宮に逃亡した。
その後、永正6年(1509年)には関東管領・上杉顕定らの調停で一旦は政氏と和解して古河に戻ったが、翌永正7年(1510年)に上杉顕定が越後で戦死すると、高基は再び古河城を離れて公方家重臣の簗田高助(やなだ たかすけ)の元へ向かった。そして同年に山内上杉家の家督争いが勃発すると、政氏は顕実を、高基は憲房を支援し、再び対立することになった。

その後、永正9年(1512年)には先に述べたように山内上杉家の家督争いは憲房が勝利し、高基は政氏を古河城から追い出すことに成功したのであった。

山内上杉家の家督争いの最中、出家していた高基の弟は還俗して義明を名乗り、下総で小弓公方として独立するという出来事があった。

その4:伊勢宗瑞・扇谷上杉家の動き

早雲は永正6年(1509年)、扇谷上杉家・上杉朝良の本拠地江戸城に迫るも、上野に出陣していた朝良が兵をひき返して反撃、両者は翌1510年(永正7年)まで武蔵、相模で戦う。
同年、早雲は権現山城(横浜市)の扇谷上杉家の重臣・上田政盛を離反させて攻勢に出るが、朝良は山内上杉家を継いだ上杉憲房と和解、山内上杉家の援軍を得た扇谷上杉家が反撃に出て、権現山城は落城してしまう。さらに、早雲の最大の敵である扇谷上杉家傘下の三浦道寸が小田原城まで迫るが、扇谷家との和睦で切り抜けた。

永正9年(1512年)8月には逆に早雲が三浦道寸を攻撃、岡崎城を攻略して住吉城(逗子市)に敗走させて勢いに乗って住吉城も落とし、道寸は子の義意が守る三崎城に逃げ込こむ。
さらに早雲は鎌倉に入って相模をほぼ掌握し、同年10月には鎌倉に玉縄城を築城し、三浦氏攻略の拠点として三浦半島に閉じ込めてしまう。

永正13年(1516年)7月、扇谷上杉家が救援のために玉縄城を攻めてくるが早雲はこれを撃退。そして道寸・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せ、激戦の末、道寸・義意父子を自害に追い込んだ。

ここに早雲は相模全域を平定。平安末期からの名族・三浦氏は滅びたのであった。

この相模平定から2年後の永正15年(1518年)、早雲は家督を嫡男の氏綱に譲り、翌永正16年(1519年)に死去。
以後、2代目北条氏綱は武蔵国へ領国を拡大、関東エリアは北条氏が支配を強めていくのである。


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