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「船岡山合戦」高国、一旦は澄元軍に京を奪われるも、頼れる大内軍の活躍で圧勝!
──永正8年(1511年)

船岡山合戦は、足利義稙を擁立する細川高国と、前将軍の足利義澄を擁立する細川澄元との間で起きた、「両細川の乱」の一つである。 この戦いは室町幕府の将軍職争いと細川宗家の家督争いという2つの側面をもち、大内氏・畠山氏・赤松氏などの幾内周辺の諸勢力も関わるなど、京を巡る一大決戦であった。

合戦マップ

時期永正8年(1511年)8月23-24日
勢力細川高国足利義稙) vs 細川澄元足利義澄
場所山城国船岡山(現在の京都府京都市北区紫野北舟岡町)

合戦の背景

細川政権は明応2年(1493年)明応の政変と呼ばれるクーデターにより、当時の将軍足利義稙が追放され、代わりに足利義澄が将軍となって誕生。この政権を掌握したのは管領の細川政元であったが、こうした誕生の背景もあって、はじめから政権自体に火種がくすぶっていた。

政元は実子がいなかったため、何人かの養子をとるが、これも災いとなった。後継者を巡る争いのもつれから永正4年(1507年)に政元が暗殺されると、3人の養子たち(澄之・澄元・高国)によって細川宗家と管領職を巡る争いが勃発。京都での一連の内乱により、わずか1年で 細川澄之 → 細川澄元 → 細川高国、と政権が移り変わることに…。
そして澄之が戦死したため、永正5年(1508年)からは澄元と高国の2人による長き覇権争いが開始される。これが「両細川の乱」である。

この乱の開始時点で、中央政権は高国が掌握し、将軍職には大内義興に擁立されて上洛した足利義稙が返り咲いていた。 政権を奪われて京から逃れていた澄元や三好之長らは、前将軍・義澄を再び擁立して、永正6年(1509年)如意ヶ嶽の戦いなど、各地で奮戦するも、なかなか成果は上がらなかった。

永正8年(1511年)、澄元らは、細川政賢・細川元常・細川尚春・赤松義村ら畿内の諸勢力を結集して反撃に転じた。同年7月の深井の合戦、8月の芦屋河原の戦いのいずれも澄元方が勝利し、摂津国中嶋城に入城を果たした後は京に向けて進軍。高国や将軍義稙らを丹波に逃亡させ、8月16日には入洛を果たした。

なお、京都奪還に成功した澄元は足利義澄の上洛を待っていたが、彼は現れなかった。実は逃亡先の水茎岡山城で数日前に病死していたのである。

合戦の経過・結果

そうした中、高国・義稙連合軍が反撃に出て京都にまで迫ると、高雄に布陣。一方の澄元ら連合軍はこれを迎撃しようと船岡山に陣取って防塁を築く。高国方の兵力は2万、澄元軍は6千ほどだったとされる。両陣営の主な参戦武将は以下のとおりである。

  • 細川高国(足利義稙)陣営:細川高国、内藤貞正、大内義興、陶興房、内藤興盛、杉興宣、益田宗兼、吉見頼興、平賀弘保、小早川弘平、吉川国経、毛利興元、尼子経久、畠山義元など…

  • 細川澄元(足利義澄)陣営:細川澄元、細川政賢、細川元常、松田頼亮、畠山義英、遊佐順盛、山中為俊など…

澄元は兵力でかなり劣勢に立たされていた。というのも、澄元の本拠・阿波からの援軍はなく、また、本来援軍に来るはずだった赤松義村も、北摂津の伊丹城で高国方の抵抗に遭い、京に入れずじまいであった。こうした状況から開戦前より結果はみえていたのである。

8月22日の深夜に高国陣営が動き出した。日が変わった23日に大内軍が中心となって夜襲を仕掛けて開戦となる。澄元勢が総崩れとなるまでに時間はかからなかったようだ。24日早朝には総大将の細川政賢まで討ち取られる事態になったという。
この戦いで高国の軍事的才能が遺憾なく発揮され、澄元勢は3千8百余もの兵が討ちとられたという。澄元は本拠の阿波国に落ち延びることになった。

戦後

勝者となった高国は京を制圧し、天下人に返り咲いた。また、将軍職をめぐる抗争は、義澄の死によって完全決着となり、義稙の将軍職復帰が確定となった。

一方、大敗を喫した澄元はしばらくは本拠の阿波国で再挙をうかがうことになる。澄元方の赤松義村は敗戦後に義稙と和睦している。元々赤松氏は義稙と対立していたが、これは今後の情勢を考えての行動であろう。一方で義澄の子・亀王丸(のちの足利義晴)を引き取って養育もするなど、赤松氏は中央との結びつきを維持していったのである。


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