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「等持院の戦い」高国と澄元による細川宗家の争いがついに決着か!?
──永正17年(1520年)

等持院の戦い(とうじいんのたたかい)は、山城国の等持院を舞台に行われた合戦であり、細川高国と細川澄元による両細川の乱の一つに位置づけられる。これまで澄元はたびたび政権奪取に向けて京へ攻め込んだが、この戦いが彼の最期の勇姿となった。

合戦マップ

時期永正17年(1520年)5月5日
勢力細川高国 vs 細川澄元
場所山城国・等持院付近(現在の京都府京都市北区近郊)

戦いの背景

永正4年(1507年)に管領の細川政元が暗殺され、3人の養子(澄之・澄元・高国)による細川宗家の家督争いが勃発。細川澄之が家督を継承するも、澄元と高国によって自害に追い込まれる。これで澄元が後継者となって家督と管領職を継ぐが、前将軍・足利義稙を庇護していた周防の大内義興がこの混乱に乗じて上洛すると、高国は澄元を裏切って義稙らと手を結び、翌永正5年(1508年)に澄元と将軍の足利義澄を追い出し、細川宗家の家督を奪取。将軍職は足利義稙が返り咲きとなった。
以後、高国と澄元による戦い(両細川の乱)がはじまる。

両細川家の乱は畠山家や大内家、北畠家など当時の有力大名が次々と介入するなどして内戦は長期化。当初は高国方が三好之長の嫡男・長秀を自害させるなど優位になっていたが、徐々に澄元方が勢いを盛り返していく。一時は高国が京から撤退するものの、澄元が擁していた足利義澄が没したこともあり、永正8年(1511年)8月、船岡山合戦で高国らは勝利、澄元は阿波へと撤退となった。

澄元の反撃で高国が一旦京を追われる。

その8年後、阿波で力を蓄えた澄元らは、永正16年(1519年)に高国方の有力大名・大内義興が帰国したのを機に、本州に上陸して反撃を開始する。

勢いに乗る澄元は永正17年(1520年)の2月、高国方の拠点である越水城を制圧する。これに動揺した高国は近江坂本へと逃亡すると、それを見た足利義稙が澄元支持を表明することに。伊丹城で指揮を執っていた澄元は、家臣の三好之長を京に派遣、3月に上洛を果たした之長が澄元に代わり、寺社への禁制の発給や高国方に属していた大名への討伐令を出すなどの戦後処理を行っている。

合戦の経過・結果

しかし、細川高国は近江で再度上洛の機会をうかがっていた。

5月3日に近江の有力守護大名・六角定頼を味方につけることに成功すると、高国は京都の東に位置する如意ヶ嶽に進軍。六角の援軍はさらに進んで京都の東に位置する吉田(知恩寺付近)に待機した。

高国方は船岡山に到着した丹波方面の援軍も含めると4~5万の大兵力であったという。それに比べ、迎え撃つ澄元方の三好之長軍は兵力が5千程と少なく、しかも澄元自体が前線に出ていないことで起こった士気の低下も重なり、敗北は必至であった。

5月5日正午、等持院に陣を構えていた三好軍に高国軍が猛攻を開始。三好軍は奮戦したものの兵数の少なさはどうにもならず、戦いは午後8時に三好軍の完敗に終わったのである。

戦後

澄元方の指揮官であった三好之長と二人の子は敗走して京都に潜伏するも、結局は捕らえられた。戦いから6日後の5月11日に之長が翌日に2人の子が自害させられている。この戦いで三好一族の多くが戦死、もしくは処刑されるなど、終わってみれば澄元方の京都奪還作戦は完全失敗となった。

之長の敗北を知った澄元は、高国方に妨害されながらもなんとか本国の阿波まで撤退したが、折からの病気からか敗北のショックからか6月10日に病死している。
だが、これで両細川の乱が終わったわけではない。澄元には子の晴元がいた。彼はこのときわずか7歳だったから、数年間は本国で息をひそめるが、父の仇である高国を討つために立ち上がるのである。


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