丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「大物崩れ」高国が滅亡!20年以上に続いた細川家の家督争いが終結。
──享禄4年(1531年)

大物崩れは ”だいもつくずれ” と読む。両細川家の間で起こった合戦の一つであり、かつての室町幕府管領・細川高国が滅んだ戦いとして有名である。当時、宿敵の細川晴元から政権奪取を狙っていた高国は、播磨の浦上村宗を味方につけて一気に京を奪回するが、最期は意外な形で大敗し、無念の死を迎えることになる。

合戦マップ

時期享禄4年(1531年)6月4日
勢力細川高国・浦上村宗 vs 三好元長・赤松政祐
場所阿倍野の森、中津川一帯。

合戦の背景

細川晴元大永7年(1527年)桂川原の戦いで父の仇・細川高国を京から追い出し、堺公方(=足利義維のこと)政権を誕生させた。

敗れた高国は、その後しばらくは各地の諸大名を頼って落ち延びていたが、やがて備前守護代の浦上村宗と通じて上洛軍を起こす。これはさらなる勢力拡大をねらう村宗と、政権奪回を図る高国との利害関係が一致したものである。

享禄3年(1530年)の6月、堺公方側の柳本賢治が、高国・浦上連合の討伐に向けて播磨に出陣してくるも、これを暗殺(一説に陣中で自害)すると、7月には村宗が念願の播磨統一を成し遂げている。
これをきっかけに高国・浦上連合は政権奪取に向けて摂津国へと侵攻。同年8月に神呪寺城に着陣すると、9月21日に富松城、11月6日に大物城、翌享禄4年(1531年)の2月末に伊丹城、3月6日に池田城など、堺公方側の諸城を次々と攻略していった。京都を警備していた木沢長政はこの危機的状況に逃亡し、ついに京都は高国の手に渡った。

しかしこの間、一方の晴元も、何もしなかったワケではない。堺公方の方針などを巡って不和となっていた三好元長に援軍を要請していたのである。

合戦の経過・結果

3月10日、本拠の阿波から本州に上陸していた三好軍は、摂津中嶋に着陣すると、住吉に出陣してきた高国・浦上連合の先鋒を撃破し、一旦天王寺まで退却させている。その後、高国・浦上連合は、高国軍が中嶋の浦江に、浦上軍が野田城・福島城に着陣した。

一方、3月25日に元長の要請を受けた阿波守護の細川持隆8千余の援軍が堺に到着。晴元と足利義維の警護のため、そのまま堺に留まった。なお『細川両家記』によれば、高国・浦上軍が総勢2万、三好・細川持隆軍が総勢1万5千だったという。 閏5月13日には、三好勢が住吉にて砦を構築するなどの動きがみられ、6月2日には高国の援軍として播磨守護の赤松政祐が神呪寺に着陣している。

ここまでで両軍に激しい衝突はなく、膠着状態だったと考えられている。 しかし、同4日に戦局が一気に動きだす。というのも高国方の赤松政祐(まさすけ)軍が突如として反旗を翻し、高国・浦上軍を背後から攻撃したのである。

なぜ政祐は裏切ったのか?──
赤松氏と浦上氏はかつて主従の関係にあったが、浦上村宗は主君の赤松義村を殺害して下克上を果たしていた。 義村は政祐の父であり、政祐にとって村宗は仇であったが、一時的に和睦状態にあったのである。 だが、父親の敵討ちをしたいという思いが強かったのだろう。

政祐は事前に堺公方と通じて裏切りを確約していた。挟撃の危機にさらされた高国・浦上連合軍は動揺し、浦上陣営では赤松への寝返りも起きたという。こうした状況で赤松軍が摂津中嶋に攻撃を仕掛けると、それに呼応して三好軍も総攻撃に乗り出した。 またたく間に高国・浦上連合軍は総崩れとなり、大将の村宗も戦死。中嶋の野里川は死人で埋まるほどだったという。

両軍のこれまでの膠着状態が嘘のように崩れたことから、その地名も付けて「大物崩れ」と呼ばれる。高国・浦上連合は、赤松軍の寝返り一つであえなく大敗となったのである。

戦後

合戦に敗れた浦上兵は、播磨の地に戻ろうとするも、背後から攻めてくる赤松軍によって一網打尽にされてしまうことに。
一方、高国は近くの大物城に退避しようとするが、そこには既に赤松の追手がいたために尼崎の藍染屋に身を潜めることにした。しかし、三好一秀によって翌5日に捕えられてしまう。このとき、一秀が「高国を見つけ出したら瓜をプレゼントする」と言って、近所で遊ぶ子供たちに高国を見つけさせた、という逸話が残っている。

こうして捕えられた高国は翌8日に広徳寺で自害させられ、細川政元の暗殺以来続いてきた、細川宗家の家督争いの幕が閉じるのである。


 PAGE TOP