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「飯盛城の戦い」管領細川晴元が暴走!内部の反対派を排除。
──天文元年(1532年)

堺公方政権の運営において、畠山義堯と三好元長が堺公方(=足利義維)の処遇を巡って管領の細川晴元と対立。その隙に主君畠山氏を通り越して晴元に接近した木沢長政の暗躍により、勃発したのが「飯盛城の戦い」である。木沢の居城・飯盛城を攻囲した畠山・三好軍だが、晴元の謀略により、まさかの大敗を喫することになる。

合戦マップ

時期天文元年(1532年)6月15日
勢力木沢長政・山科本願寺 vs 畠山義堯三好元長
場所飯盛山城周辺。

合戦の背景

永正4年(1507年)に細川政権のトップである細川政元が暗殺され、以降は政元の養子である細川澄元細川高国による細川宗家の家督争いと、中央政権の覇権を巡る争いが続いてきた。
基本的に政権は長期にわたって高国が掌握していたが、大永7年(1527年)に澄元の遺児・細川晴元がようやく高国を京から追い出し(桂川原の戦い)、12代将軍足利義晴の実弟にあたる足利義維を擁立して堺公方政権を樹立した。

享禄4年(1531年)には、復権を図る高国が播磨守護代の浦上村宗を味方に上洛軍を起こし、堺公方は危機的状況となるが、晴元の重臣である三好元長らの活躍によって、高国を討ちとることに成功する。(大物崩れ
こうして高国派を倒した晴元は、そのまま堺公方(=足利義維のこと)を新たな将軍に据えるのかと思いきや、一転して高国派だった将軍足利義晴と和睦へ向かう。この決断に元長や畠山義堯は反発し、元長らと晴元との主従関係は悪化の一途をたどっていった。

さらに三好一門の三好政長や畠山家臣の木沢長政らの暗躍も重なった。同年8月には木沢の下剋上を狙う企てが発覚したため、義堯が居城の飯盛城を攻撃するが、木沢の援軍要請を受けた晴元が仲裁することで一旦は兵を収めることになった。 しかし天文元年(1532年)の5月、義堯軍は三好元長に援軍を要請し、再び木沢のいる飯盛城攻めを敢行。一方、木沢も晴元に援軍を要請したのである。

合戦の経過・結果

晴元は援軍を派遣するも、畠山・三好の軍勢を崩せなかったため、本願寺教団の力を借りることにした。

当時、山科本願寺の法主は17歳の証如であり、後見人は蓮淳が務めていたが、彼は熱心な法華宗徒であった三好元長に対して深い恨みをもっていたという。過去に元長は、法華宗徒へ圧迫した本願寺に対して弾圧を加えていたらしい。つまり元長は法華宗の庇護者であったのだ。
このため、蓮淳は晴元の要請に応える形で証如を出陣させ、飯盛城救援に向かわせたのである。

同年6月5日、証如の号令で摂津・和泉・河内の本願寺門徒がぞくぞくと集結し、その数は3万にも及んだという。そして15日に飯盛城が包囲され、畠山・三好勢は圧倒されて大敗となった。

戦後

戦後、義堯は逃亡を図るも、一揆軍の追撃を受けて17日に自害に追い込まれている。一方で元長も和泉国・顕本寺へと逃げ込んだが、さらに膨れ上がった本願寺門徒に完全包囲されて万事休す。最期は自害となった。

この戦いで一向一揆の実力が明らかとなった。これを利用した晴元自身、一向宗に対して脅威を覚え、今度は法華宗と手を結んで一向宗と戦うことになる。


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