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「三好長慶」細川氏に代わり、政権を樹立した日本の副王。

三好長慶の肖像画
織田信長が上洛して15代将軍足利義昭を誕生させ、事実上の織田政権を樹立したことはよく知られているだろう。 それ以前の政権が三好政権であり、その頂点に立っていた三好長慶は、長らく畿内の支配者として君臨。「日本の副王」と評された人物なのである。

混乱の細川政権下に生まれる

長慶は大永2年(1522年)三好元長の子として誕生。

三好氏は、鎌倉時代に阿波国三好郡を本拠とし、室町時代には名門・細川家の庶流である阿波細川家に仕えた一族である。長慶の曽祖父(一説には祖父)とされる三好之長の代には、細川政元政権下で細川京兆家(=細川宗家のこと)の重臣に抜擢されており、三好一族が畿内に進出するきっかけとなった。

両細川の乱、はじまる。

やがて管領の細川政元が暗殺されたのを契機として、細川宗家の後継者争いと将軍職を巡る争いが勃発。幾内は「細川高国大内義興足利義稙」VS 「細川澄元・三好之長・足利義澄」という対立構図によって混迷を極めたが、最終的に高国派の勝利となり、敗れた澄元派のうち、之長は討死、澄元と義澄は病死。なお、義稙は途中で澄元派に鞍替えしたため、のちに出奔する。

このように長慶が誕生した頃には、高国が事実上の天下人、将軍は足利義澄の遺児の亀王丸(後の12代将軍足利義晴)が就いていた。しかし、これで細川家の内紛が終わったワケではなかった。澄元の意志は彼の遺児である細川晴元に受け継がれ、やがて長慶の父元長とともに反撃の狼煙を上げるのだ。

大永7年(1527年)、元長が14歳の晴元を擁立し、さらに足利義維を担ぎ上げて挙兵。幾内へ進出して高国・義晴連合軍を破ると(桂川原の戦い)、京を奪還して仮の幕府・堺公方政権を創設。さらには享禄4年(1531年)に再挙を図って幾内に攻め込んできた高国を倒し、名実ともに政権奪取となったのである。(大物崩れ
なお、このときの長慶はまだ6歳であった。

幼くして父・元長を亡くす

父の元長は、政権樹立に多大な貢献をしたのだが、主君の晴元が堺公方(=足利義維)をないがしろにし、高国派であった将軍足利義晴との和睦を推し進めようとしたため、仲違いしていく。さらに権力の掌握をもくろむ木沢長政や三好氏庶流の三好政長らの暗躍もあり、享禄4年(1532年)飯盛城の戦いのとき、晴元の手引きで蜂起した一向一揆軍に討たれ、自害となった。

幼くして父を亡くした長慶は、母と共に阿波へ逃れ、雌伏の時を過ごすことになる。

父の仇・晴元に仕え、幾内へ進出。

天文3年(1534年)には、晴元と将軍義晴の和睦が成立し、ここに堺公方に代わって細川晴元政権が誕生した。同年、一方の長慶は、父の仇討ちのために晴元や三好政長の軍勢と戦ったとみられるが、どういうワケか木沢長政の仲介によって晴元に従属することになった。その後、晴元配下で智勇兼備の武将に成長し、密かに阿波で勢力も拡大していたようだ。

天文8年(1539年)には、主君晴元や三好政長と対立が生じる。父元長が任命されていた室町幕府の料所である河内十七箇所の代官職は、元長の死後に三好政長が奪っていた。このため、長慶は自分にこれを与えるように晴元に要求するが、これを退けられたために武力衝突が発生したのである。

ただ、抗争を避けたかった晴元は、将軍義晴に仲介を依頼しており、長慶も六角定頼や武田元光ら諸大名と敵対することを嫌ったため、大きな衝突が起こることもなく和睦に至っている。
長慶は代官職を得ることはできなかったものの、摂津の越水城を与えられ、本拠を阿波国からこの地に移した。なお、翌天文9年(1540年)に丹波国の波多野稙通の娘を正室に娶っている。こうして足元を固めた長慶は、摂津を拠点に急速に勢力を伸ばしていくことになる。

氏綱派の登場で、晴元政権は不安定に。

高国の死後、晴元は長慶を従属下に置き、一向宗や法華宗、高国の弟の細川晴国を撃破する等しており、この頃はすでに管領として幕政を支配していた。このため、比較的畿内は安定していたようだ。しかし、高国の養子・細川氏綱が反晴元の旗を挙げ、さらに政権内部でも火種が残っていたため、再び幾内情勢が悪化することに──。

天文10年(1541年)、木沢長政が謀反を起こしたが、翌天文11年(1542年)に晴元・長慶に加え、遊佐長教の軍勢も加わって木沢軍を撃破し、追撃戦で長政を討ち取っている。(太平寺の戦い

天文12年(1543年)には、亡き細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵。このとき長慶も出陣しており、氏綱軍の敗北に終わっている。なお、この氏綱派の挙兵はこれがはじめてではなく、これまで断続的に蜂起していた。また、遊佐長教は密かに氏綱派を支持し、晴元政権の弱体化を狙っていたという。

さらに天文14年(1545年)には、旧高国派で山城国の上野元治・元全父子、丹波国の内藤国貞らが挙兵。このときは晴元・長慶・政長らが各自軍勢を率いて反乱鎮圧に成功したが、続く翌天文15年(1546年)にも畠山政国や遊佐長教の援助を受けた氏綱が再び挙兵すると、晴元方の諸城が次々と攻略され、摂津国の大半が奪い取られた。
一時晴元は丹波国へ逃れる事態となったが、長慶の実弟である三好実休安宅冬康・十河一存ら四国の援軍が摂津に結集すると、 徐々に勢力を回復。天文16年(1547年)7月には京を奪還し、舎利寺付近で両陣営が激しく衝突。幾内最大の合戦として有名な舎利寺の戦いである。

この合戦は結局、晴元・長慶らの勝利に終わった。なお、義晴は合戦の最中に京を追われた際、ちゃっかり氏綱支持に転じており、その間に将軍職を嫡子の菊童丸(のちの足利義輝)に譲っている。ただ、戦後は帰京して晴元と和睦に至ったらしい。
一方の遊佐長教は、長慶の実力を認識したのか、長慶の継室として娘を嫁がせている。

晴元・政長と決裂。三好政権誕生へ。

こうした中、ついに長慶が反旗を翻す──。

きっかけは以下のような説がある。

  • 三好政長・政勝父子の不祥事(晴元への讒言など)
  • 遊佐長教から父の死と政長暗躍の舞台裏を聞かされた。
  • 政長が讒言で池田信正を自害させたため、これに反発した摂津国人に長慶も担がれた。

上記いずれの理由にしても、長慶にとって晴元と政長の2人が父の仇であることが根底にあるだろう。

長慶は、政長討伐を晴元に要請したものの、これを受け入れなかった。そして天文17年(1548年)の10月、いよいよ岳父の遊佐長教を通じて氏綱派に転じ、政長打倒に乗り出す。長慶は因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け、三好政勝が籠城する榎並城を包囲。そのまま翌天文18年(1549年)に持ち越して戦線は膠着状態となったが、 政長が摂津江口城に移ったのを機に攻勢に出て、ついに政長を討った。(江口の戦い

この戦いで多くの配下を失った晴元は追撃を恐れ、義晴・義輝父子らとともに近江坂本まで逃れた。幕府首脳陣が不在となった京都には、長慶や氏綱が上洛して幾内を掌握。ここに三好政権が誕生したのである。

晴元・将軍義輝との対立

長慶が幕府不在のままで京都の実権を握る一方、将軍義輝と晴元の2人はその後もたびたび再挙を図り、いずれもことごとく失敗することになる。

天文19年(1550年)、最初の京都奪回作戦となった中尾城の戦いで晴元らはあえなく撃退。天文20年(1551年)には義輝・晴元らの仕業とされる2度の長慶暗殺事件が発生しているが、いずれも未遂に終わっている。さらに同年7月には、晴元派の三好政勝や香西元成が京の奪還に挑むも、4万もの三好の大軍に敗れている。(相国寺の戦い

こうした中、一時的ではあるが、天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦している。このとき、管領を細川氏綱とする条件で義輝は帰京したが、和睦に納得いかない晴元はそのまま敵対姿勢を崩さなかった。

天文22年(1553年)に再び義輝と決別すると、以後5年間は晴元・義輝の両者と敵対した。 この間、長慶は軍事活動を積極的に進めて勢力を拡大し続け、本拠も越水城から芥川山城に移して全盛期を築き上げている。 その支配領域は、摂津をはじめ、山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨などに及んでいたという。

軍事面で抵抗力を失っていた晴元らは、しばらく上洛軍を興すことはできなかったが、永禄元年(1558年)に近江守護・六角義賢の支援を受けて、懲りずに挙兵。京都市街で衝突するも小規模な戦闘に終始し、六角氏の仲介で和睦となった。(北白川の戦い
これにより、ようやく将軍義輝と長慶がタッグを組み、以後は協調関係を築いていくことになる。なお、このときも晴元は和睦に反対して姿をくらまし、長慶への敵対行動を継続させていった。

最盛期から衰退へ

永禄3年(1560年)には居城を飯盛山城へ移し、芥川山城は子の三好義興に譲渡している。この年、長慶の支援で河内守護に復帰できた畠山高政が背信行為を行ったため、長慶は激怒。高屋城を占領して高政を追放しているが、これがのちの大合戦につながることになる。

永禄4年(1561年)、ついにかつての主君・細川晴元と和睦。しかし、長慶が晴元を普門寺城に幽閉したことで、姻戚関係にあった六角氏が激怒。ここで六角氏と畠山氏が手を結んで反三好を掲げて挟撃作戦を企て、同年11月の将軍地蔵山の戦い、翌永禄5年(1562年)3月の久米田の戦いが勃発。三好軍は一時的に六角軍に京を奪われ、長慶の弟・実休も畠山軍に敗戦して討死するという窮地を迎える。

しかし、長慶はすぐに反撃体制を整え、同5月には畠山軍との決戦に挑んだ。このときの教興寺の戦いは、三好方が6万余、畠山方が4万余といわれるように、両陣営が幾内を中心とした諸勢力を結集させた一大決戦であった。ただ、大規模な兵力とは裏腹に合戦は1日で決着がつき、三好軍の圧勝に終わった。

再び幾内は三好政権の支配となったが、上記の一連の戦いの中で、三好一族は弟の十河一存が急死、実休も討死。支配体制の再構築に迫られるなど、弱体化は明らかであった。

最期

以後、三好家の衰退が顕著となる。

長慶が病気がちになっていく中で、引き続き反三好の動きに対処していった松永久秀らが三好家中において台頭していく。さらに永禄6年(1563年)には義興が若くして死去。後継者として十河一存の息子・重存(のちの三好義継)を養子に迎えている。

この頃の長慶の病状は、すでに末期だったらしく、一説にはうつ病にかかっていたとも言われる。翌永禄7年(1564年)の5月、弟の安宅冬康を飯盛山城に呼び出して誅殺するという愚行は、まさに象徴的な出来事であろう。

そしてその2カ月後には病死。その後、三好氏による幾内支配は長く続かず、織田信長に取って代わられることになる。


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