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「三好長慶」細川氏に代わり、政権を樹立した日本の副王

三好長慶の肖像画

混乱の細川政権下に生まれる

三好長慶は1522年(大永2年)に三好元長の子として誕生。

この当時、中央では1493年の明応の政変以来、細川政権が続いており、細川氏の後継者争いに勝利した細川高国が事実上の天下人となっていて、対立していた10代将軍・義稙に代わる新将軍として、足利義澄の遺児の亀王丸(後の12代将軍足利義晴)を擁立していた。
だが、細川氏の後継者争いで敗れた細川澄元の遺児・細川晴元が高国への仇討ちを狙い、1527年に京を奪還して仮の幕府を創設し、さらには1531年(享禄4年)に高国を倒して名実ともに政権を奪取したのである。

幼くして父・元長を亡くす

この晴元に仕え、政権樹立に多大な貢献をしたのが長慶の父・元長であった。

元長は多大な功績を残したが、主君・晴元が足利義晴との和睦を推し進めようとしたことで不和となっていった。
さらに元長に代わって権力の掌握をもくろむ木沢長政や三好一門の三好政長らの暗躍もあり、1532年(享禄4年)に晴元の手引きで蜂起した一向一揆軍に討たれて自害したのであった。

こうして幼くして父を亡くした長慶は母と共に阿波へ逃れた。

父の仇・晴元に仕える

父・三好元長の仇である晴元の家臣となっていた長慶はひそかに阿波で勢力を拡大していた。そして1539年(天文8年)には父が残した河内の領国を取り戻すため、ついに上洛を果たした。

河内の領国は同族でありながら父・元長を死に追いやった一人の三好政長が奪っていたのだ。

晴元が長慶の要求を退けて政長を支持したために武力対立が発生するが、戦闘を避けたかった晴元が将軍義晴に仲介を依頼したことで一旦和解となる。

1541年(天文10年)、木沢長政が謀反を起こし、京都郊外の岩倉へ逃れるが、翌1542年(天文11年)に晴元は長慶・政長と河内国の遊佐長教による活躍で長政を討ち取る(太平寺の戦い)。

1543年(天文12年)、亡き細川高国の養子・細川氏綱が晴元打倒を掲げて和泉国で挙兵。このとき以外にも、将軍義晴は氏綱側を支持、そして、長慶は晴元を支持した。

1545年(天文14年)、山城国で高国派の上野元治・元全父子と丹波国の内藤国貞らが挙兵、晴元は三好長慶・政長ら諸軍勢を率いて反乱を鎮圧したが、翌1546年(天文15年8月)に氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助で再び挙兵し、長慶らは動きを封じられて摂津国の殆どを奪い取られた。
9月には上野元治も再挙兵して京都へ入ったため、晴元は丹波国へ逃亡するが、長慶の実弟である三好実休安宅冬康(鴨冬)、十河一存ら四国の軍勢が到着すると徐々に形成逆転。
決着はつかなかったものの、氏綱側を支持した義晴は12月に近江に逃れ、嫡子の義輝に将軍職を譲った。

1547年(天文16年7月21日)、舎利寺の戦いが勃発。細川氏綱・遊佐長教軍に勝利、敗報を聞いた足利義晴が帰京して細川晴元・六角定頼と和睦した。

三好政権の誕生

こうして陪臣の身でありながら強大な力をつけてきた長慶は、晴元政権下で重用され、三好政長とともに軍事行動を共にしたのであるが、1548年(天文17年)になって三好政長打倒に乗り出した。

討伐に乗り出した理由は、摂津国人・池田信正(政長の娘婿)が晴元の屋敷で切腹させられたとも、父・元長の死の裏で三好政長が暗躍したことを聞いたともいわれている。

主君・晴元とは決裂、政長を討つ!

晴元が政長討伐を受け入れなかったため、10月28日、長慶はついにかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び、晴元に反旗を翻した。

因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け、三好政勝が籠城する榎並城を包囲し、そのまま翌1549年(天文18年)に持ち越すと、 政長を摂津江口城に追い込み、ついに討ち取る(江口の戦い)

晴元と再三にわたって交戦

この戦いで三好政長・高畠長直ら多くの配下を失った晴元は追撃を恐れ、義晴・13代将軍義輝らとともに近江国坂本まで逃れた。 幕府首脳陣が不在となった京都には三好長慶と細川氏綱が上洛し、長慶が幕府と京都の実権を握ることになり、ここに三好政権が誕生したのである。

1550年(天文19年)には義晴は坂本でそのまま病没。晴元はその後も再三にわたって挙兵を試みるもことごとく失敗。同年、中尾城の戦いでは義輝を擁立し、香西元成や三好政勝など晴元党の残党を率いて東山の中尾城と丹波国を拠点に京都奪回を試みるも失敗。中尾城を破棄。
また、1551年(天文20年)には、相国寺の戦いで丹波衆を率いた元成・政勝が長慶軍に挑むが敗れている。

1552年(天文21年)、一方で長慶は幾内の安定を図るために将軍義輝と和睦し、細川氏綱を管領に添えることを上洛の条件とした。 しかし、1553年(天文22年3月)に長慶が将軍義輝と決別すると、再び晴元・義輝と交戦。しかし、これに再び勝利し、近江国朽木へ追いやった。

1558年(永禄元年)の北白川の戦いでは、晴元・義輝は懲りずに上洛を図り、将軍山城で三好軍と交戦するものの、六角義賢の仲介により義輝と三好長慶が再び和睦。和睦に反対した晴元は姿をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続けていった。
13代将軍義輝と和睦した長慶は以後、幕府との対立関係から一転して協調関係を築いていき、勢力も順調に拡大していった。

家臣の松永久秀、そして、尾張の織田信長の台頭までは・・


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