義興は1542年(天文11年)、三好長慶と波多野稙通の娘との間に誕生。当時、父の長慶は摂津守護代に就いており、細川晴元政権下において主君・晴元を脅かすほどの強大な力を有していた。
やがて政権下で晴元や同族の三好政長と対立するようになると、1549年(天文18年)には江口の戦いで三好政長を討ち取り、晴元に代わる主君・細川氏綱を擁立して入京を果たした。
こうして翌1550年(天文19年)には三好政権を樹立。のちに晴元や13代将軍・足利義輝は再三にわたって政権奪還を試みるが、長慶はこれを阻止している。
そうした情勢の中、義興は1552年(天文21年)に元服し、"孫次郎慶興(よしおき)"と名乗った。
1558年(永禄元年)には再び晴元・義輝らと戦うが(北白川の戦い)、父・長慶は六角義賢の仲介で義輝と和睦し、将軍・義輝を京に迎え入れている。
翌1559年(永禄2年)には父・長慶とともに上洛して将軍義輝と謁見し、義輝から「義」の字を賜って"義長(よしなが)"と名乗った。
義興は父・長慶に劣らず智勇に秀でており、1560年(永禄3年)には長慶が河内・飯盛山城へ移転したことにともない、摂津国・芥川山城を任された。このとき、家督を継承して事実上三好氏当主になったとみられている。
その翌年、1561-62年(永禄4-5年)には六角氏や畠山氏との戦いが勃発し、若くして家臣・松永久秀らとともに出陣している。
義興は13代将軍・足利義輝からは父・長慶とほぼ同等の優遇を受けたといい、1561年(永禄4年)には御供衆・相伴衆に任じられるなど、厚い親交があったという。
しかし、1563年(永禄6年)には病に倒れ、曲直瀬道三などに介抱されるも父より先に病没した。
死因は黄疸といわれている(『足利季世記』)。ただし、後世の軍記物の中には、下剋上を狙う松永久秀による毒殺という説も存在しているようである。