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「三好政長」讒言によって三好宗家をおとしめようとした庶家

三好政長は戦国時代の武将で、三好氏一族出身である。三好勝時の3男として誕生し、勝長は兄である。政長の子供には宗渭と為三がおり、名前は不明だが池田信の正室となった娘もいる。政長は茶道をたしなんでおり、宗三の名でも知られている。彼は細川晴元の側近として権勢を振るっていたが、本家と対立して敗れている。

足利義維らを擁立

三好家の長兄は新五郎であるが、永正17年(1520年)等持院の戦いで敗れて処刑されている。新五郎が敗れた相手は細川高国で、本家当主の三好之長も処刑されている。三好一族自体も殆どの武将が戦死しており、以降衰退の色が濃くなる。ところが高国は内紛を自ら招いてしまい、苦境に立たされることになった。政長はこの機会に乗じて、父や勝長とともに阿波勢の先鋒となった。摂津堀城を占拠した一行は、大永6年(1527年)桂川原の戦いで高国に勝利した。その後上洛を果たして、之長の孫である三好元長が足利義維らを擁立した。

堺公方府

政長は細川澄元の遺児・晴元を擁立し、幕府と似た堺公方府を誕生させた。そして、堺公方府の中枢として権勢を振るったわけである。一方分家の政長は本家の元長との仲が悪く、度々主君の晴元に諫言して元長を陥れている。そんな折元長は、将軍となった足利義晴と高国との和睦に動くことになる。政長らはこれに大反対し、元長を窮地に追い込んでいく。元長が阿波へ帰郷すると、政長が阿波勢を統率する立場となった。しかし高国が享禄3年(1530年)に播磨で挙兵すると、堺公方府が危機に陥ってしまう。やむなく元長を呼び戻して、高国軍を迎え撃たせた。

細川政権の重鎮

中嶋の戦いで勝利した元長が台頭することになり、政長たちの立場は危うくなった。そこで彼は木沢長政らと結託して、再度元長と対立することになる。享禄5年(1532年)に政長の居城・河内飯盛山城が包囲されると、彼は一向一揆を利用して元長らを討つことに成功した。その後細川政権の重鎮となり、室町幕府料所である河内十七箇所を統治した。ところが、元長の嫡男・長慶が晴元に仕えるようになり、河内十七箇所の代官職を巡り政長と対立する。そして長慶は天文8年(1539年)に兵を挙げ、堺に上洛する。このため晴元は京都に避難し、蟄居していた政長を支援する。

三好一族の策略

政長と長慶の一連の争いは、将軍義晴の調停で一旦収束を向かえる。これ以降政長は長慶と強調して軍事行動を取るようになり、天文10年(1541年)の長政討伐などで共に活躍している。天文13年(1544年)に晴元の勧めで隠居したが、家督を譲られた嫡男・政勝を上回る地位を維持していた。これが長慶を初めとする周囲の反発を買い、再び泥沼の諍いに入り込んでいった。政長は娘婿である池田城主・池田信正を切腹に追いやり、彼の腹心が池田家を取り仕切ることになった。政長の強引さに長慶らは憤慨し、政長討伐の反乱を起こした。この反乱は細川晴元討伐へと拡大し、籠城した息子の為三が三好勢に包囲されることになった。

息子の窮地を救うため

互いに打つ手がなくなった政長・長慶両陣営は、膠着状態のまま天文18年を迎える。それでも同年2月には、長慶が出陣して政長の本拠地・榎並城を包囲している。それに対して政長は包囲を破るため、榎並城近くの柴島城に入る。この城は落とされてしまい、政長は伊丹城へ引き上げることになる。
同年4月に晴元が摂津に出向くと、政長は軍を立て直すことが出来た。しかし敵に包囲され窮地に陥った息子の政勝を救うため、彼は援軍を待たずに出陣してしまう。長慶は江口城に入った政長の周囲を攻略し、最終的には城に攻め込んで政長を討ち取った(江口の戦い)。

江口城を長慶側の十河一存に攻め込まれたので、政長は城を出て淀川を泳いで渡ろうとした。そこに敵が追いつき、彼は討ち取られたわけである。

細川晴元も江口城に篭っていたが、最終的には近江に逃げ果せている。ここにおいて長年にわたり幕政を担ってきた細川政権は崩壊し、最後は消滅してしまう。

政長は茶人としても優れた業績を残しており、茶器や刀剣に関しても目利きであった。天下三肩衝の1つとされる、新田肩衝を所有していたことでも知られる。因みに織田信長が所持することになる名刀・左文字は、元は政長が所持していたものであった。


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