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「細川澄元」高国との覇権争いに敗れ、遺児・晴元に後を託す。

細川澄元の肖像画
細川澄元(すみもと)といえば、両細川の乱で家督争いを演じた主役の一人である。 父子2代にわたって宿敵の細川高国を討伐した壮絶ストーリーは必見だが、澄元の生涯はそのストーリーの前編に位置する。まさに一見の価値あり!

細川宗家の後継者候補に。

澄元は延徳元年(1489年)、讃州家の当主・細川義春の子として誕生した。

讃州家は細川氏の分家にあたり、代々の当主が阿波守護を務めていたことから阿波細川家とも呼ばれる。父の義春も阿波守護を務めていたが、澄元が6歳のときに病死。以後、澄元は祖父の成之に養育されることになる。

当時、室町幕府を掌握していたのは管領・細川京兆家(=本家)の細川政元であった。政元には子がなかったため、後継者として養子を次々に迎えていく。はじめ摂関九条家から聡明丸(のちの細川澄之)を次期家督候補の養子として迎えていたが、折り合いが悪かったゆえに文亀3年(1503年)に廃嫡し、代わりに澄元を養子に迎えて後継者とした。

このとき元服して「澄元」の名が与えられているが、細川京兆家の家督継承者は代々「元」の字が含まれていることから、澄元が正式な後継者とされていたことがうかがえる。

政元暗殺。永正の錯乱、はじまる。

政元は澄元を後継者に定めたにも関わらず、細川氏の分家である野洲家から細川高国を養子に迎えてしまう。だが、これがのちの家督争いを招くことになる。

永正4年(1507年)の6月23日、後継者争いのもつれから政元が暗殺される。これは澄之を支持する香西元長や薬師寺長忠らの手によるものであった。翌24日には澄元も暗殺されそうになるが、三好之長に助けられてともに近江に逃亡した。しかし、之長に擁立された澄元は、まもなく近江の国人の力を借りて挙兵。8月1日には澄之を討ち、翌2日に時の将軍・足利義澄から細川京兆家の後継者と認められたのである。なお、もう一人の養子である高国も澄元を支持し、この時の合戦に貢献している。

ここに澄元政権が誕生したのだが、そう長くは続かなかった。
当時18歳び澄元に対し、家宰を務めていた三好之長は49歳である。2人の仲は必ずも円満ではなかった。政治を委任された之長には増長な振る舞いも多かったからか、気を悪くした澄元は一時は阿波に帰国しようとするが、将軍義澄の説得もあって思い留まったらしい。

こうした中、京都での内乱を知った前将軍義尹(のちの足利義稙)が復権に向けて、周防の大内義興に擁立されて上洛の軍が動き出すと、事態は一変。澄元は大内氏との和睦を図るが、ここで高国が大内方に寝返り、翌永正5年(1508年)3月には将軍足利義澄とともに京を追われて近江へ逃がれることとなった。

暗殺からわずか1年たらずで、政権は次々に交代。まさに3人の養子によるバトンリレーだったのである。


高国との激闘

澄元に代わって高国が入京すると、細川京兆家の家督の座は高国に奪われ、前将軍義尹も将軍に復帰となった。 以後、澄元派と高国派による壮絶な戦いがはじまる。

近江国で反撃の機会をうかがっていた澄元と之長は永正6年(1509年)に京へ進軍、如意ヶ嶽で高国軍と交戦し、そのまま本拠の阿波へと落ち延びていった。(如意ヶ嶽の戦い
その後、永正8年(1511年)の7月に挙兵すると、深井の合戦や芦屋河原の戦いを経て一時は京の奪還までに至るが、同8月23日の船岡山合戦で味方の細川政賢が討ち死にする等、高国軍に大敗を喫したため、再び雌伏の時を過ごすことになった。

そして7年後にようやく再挙のチャンスが訪れる。
永正15年(1518年)の8月、それまで高国政権を支えてきた大内義興が突如周防に帰国したのだ。これに乗じて澄元は出陣の準備にとりかかり、永正16年(1519年)には本州に上陸して反撃を開始。

永正17年(1520年)の2月には、念願かなって高国を京から追い出すことに成功。なお、このとき澄元は体調が悪かったからか、伊丹城に留まり、代わりに三好之長の軍勢が上洛を果たしたとみられている。しかし、5月にはさっそく高国の逆襲に…。大軍を揃えた高国勢に対し、戦う前から澄元勢が明らかに劣勢であった。
澄元不在となった等持院の戦いは、わずか半日で決着となり、澄元軍の大敗に終わると、敗走した三好之長も間もなく捕えられて処刑となった。

またしても京の制圧が短期間に終わった澄元は、高国の追撃を受けて阿波へと逃走するも、同年6月10日に失意のうちに病没した。打倒高国は澄元の遺児・晴元に受け継がれることになる。


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