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「松永久秀」爆死という衝撃エピソードをもつ、戦国の梟雄の代表格。

松永久秀の肖像画
当初は三好家に仕えながら主君の三好家の一族を殺害し、室町幕府の将軍足利義輝の直臣になったにもかかわらず自害に追い込んだ。後には、織田信長に仕えながら二度も謀反を引き起こして、とうとう信長に追い込まれて日本史上初めて爆死するという波乱に満ちた松永久秀の生涯を紹介していく。

生まれから河内守任官まで

松永久秀は1510年に誕生したと言われるが出自は不明瞭だ。出身地に関しても山城国なのか阿波国なのか摂津国なのか諸説ある。 一説には1529年に細川氏の三好長慶の書記役として仕えたとされる。

初めて史料に登場するのは1542年である。細川氏に反乱を起こした木沢長政に加担した筒井氏を討伐するために三好方の指揮官として出陣した。翌年に正室である三好長慶の娘が嫡男松永久通を出産している。1548年に三好長慶が主君の細川晴元に反乱を起こし、翌年に松永久秀は三好長慶とともに京に入る。そして、彼らは室町幕府第13代将軍足利義輝、管領細川晴元らを追放して三好政権を樹立する。

1553年に畿内を平定して松永久秀は摂津滝山城主に任命される。1556年には奉行に就任、弾正忠に任官されるなど順調に昇進していく。1558年に京から追放されていた将軍足利義輝と細川晴元が近江から京都に進撃してくると、松永久秀は三好一門衆の三好長逸や公家の高倉永相らと一緒にこれを迎え撃った。同年11月に和睦が成立した。翌年に正親町天皇から河内守に任官される。

大和国の侵攻から支配まで

1559年から大和攻略のために大和国に攻め入る。1560年に大和北西に本拠地として信貴城を築城する。同年、将軍足利義輝から相伴衆に列せられ、天皇から弾正少弼に任官される。三好家の家臣であるにもかかわらず幕府の直臣にもなったことで、後世悪名とされる原因の1つになる。ただし、この時期は三好家と将軍家の間を取り持つなど双方にとって重要な役割を担うことになった。同年大和国を平定する。

1563年12月に三好家の家督を嫡男の松永久通に譲った。1564年7月に三好長慶の死去を受けて、三好家において既に重要な存在になっていた松永久秀は三好三人衆の三好長逸、三好政康、岩成友通と共に三好家を支えていく。しかしながら、家督は三好長慶の甥である幼い三好義継が継いだことから、松永久秀は自身の思い通りに主君を操っていく。1565年5月には三好三人衆と共謀して二条城を攻めて、将軍足利義輝を殺害する。これを永禄の変という。このとき足利義輝の弟である覚慶を幽閉する。同年から畿内の主導権争いをめぐって三好三人衆と松永久秀は対立するようになる。三好三人衆は三好義継を担いだことで一門衆の三好康長らが支持して、松永久秀は三好家の中で孤立することになる。1567年2月についに両者は激突するも松永久秀は敗れて多聞山城に退却する。これを上芝の戦いという。これ以後、三好三人衆とたびたび戦うことになるが、その中で市街戦になった奈良は大きな打撃を受ける。このときに東大寺の大仏殿が焼かれているが、これも松永久秀の仕業とされて後世にますます悪名を高めることになる。しかし、これには諸説があり、ルイス・フロイスの『日本史』では東大寺の大仏殿を焼いたのは三好三人衆側のキリシタンと書かれている。6月29日の信貴山城の戦いで信貴山城が陥落して松永久秀は劣勢状態に追い込まれる。こうした状態から何とか再起を目指していたところに織田信長が上洛する。真っ先に久秀は織田信長に帰順する。このとき名茶器とされる「九十九髪茄子」を織田信長に献上している。織田信長は久秀の力量を認めて久秀を支援して大和に20000人の軍勢を送る。これを受けて松永久秀は筒井順慶を劣勢に追い込み没落させる。織田信長は三好三人衆を駆逐して畿内を平定して久秀に大和一国を安堵する。

信長に二度叛き、壮絶な自害を遂げる

1570年には、織田信長の朝倉義景討伐に参戦して浅井長政の裏切りによって窮地に立たされた織田信長を救っている。久秀は信長の家臣として尽くす一方で将軍足利義昭と裏でやり取りをしていた。1572年に松永久秀は三好三人衆と共に織田信長に謀反を起こす。しかしながら、同年7月の槇島城の戦いで足利義昭が織田信長に敗れて追放され、12月には多聞山城が包囲されて松永久秀は降伏する。信長は久秀を高く評価していたことから裏切りを許す。このとき筒井順慶も織田信長に帰順して後に大和の支配を任される。1577年に越後の上杉謙信が上洛するという噂を聞いて久秀は再び織田信長に叛いて信貴山城に籠城する。しかしながら、上杉謙信は上洛せず当てが外れて孤立する。織田信長は嫡男の織田信忠を総大将にして筒井順慶らを派遣して信貴山城を20000人の軍勢で包囲する。織田信長は久秀が持っている名茶器の平蜘蛛茶釜を渡せば命は助けると勧告するも久秀は拒否する。籠城が長引くにつれて久秀を裏切る者や城から逃亡する者が続出し、最期は自害して果てた。享年68歳。

最期は平蜘蛛茶釜を叩き割って爆死したという逸話があり、日本史上初の爆死などといわれているが、これは明らかに創作だろう。


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