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「萱津の戦い」清洲織田氏の又代・坂井大膳を撃破!
──天文21年8月(1552年)

信秀の死後、尾張国内での不穏な空気とともに、新当主となった信長に様々な混乱が襲いかかってきた。

天文22年(1553年)の8月15日、赤塚の戦いの勃発に乗じて今度は清洲織田氏の重臣・坂井大膳が坂井甚介・河尻与一・織田三位らと謀り、信長方の支城である松葉城とその並びにある深田城を襲撃。松葉城主・織田伊賀守と深田城主・織田信次(信秀の弟)は無理やり人質とされてしまった。

尾張下四郡の守護代・清洲織田氏の当主は織田信友であったが、既に力はなく、実権は重臣の坂井大膳が握っていた。信秀の生前にはこれら清洲衆を守護ごと掌握していたが、家督を継いで間もない信長にはまだそのような力はなかったのである。

翌16日にこの報を聞いた信長は早朝に居城・那古野城を出陣。そして、守山城からは叔父の織田信光が応援に駆けつけてきた。兵を松葉口・三本木口・清洲口に分けて信長・信光軍は一手になって庄内川を越し、清須城外の海津(萱津、=現:愛知県あま市甚目寺)付近へと移動、これに対して清須城からは敵将の坂井甚介が軍勢を率いて出撃してきた。

戦いは辰の刻(午前8時ごろ)にはじまり、数刻交戦の末、織田方の中条家忠と柴田勝家が二人がかりで敵将・坂井甚介を討ち取り、その他にも清洲方の50騎を討ちとったという。

松葉口では清洲方を惣構えの中へ追い入れて、真島の大門崎で辰の刻から午の刻(おおよそ午前8時から正午ごろ)まで交戦が行われた。数刻の矢戦の末、多数の負傷者がでた清洲方は本城に退却した。また、深田口では三本木(=現:愛知県海部郡大治町三本木)の町に要害がなかったため、進軍して清洲方の侍は30余人を討ち取ったという。

こうして信長方は清洲方を降参させ、深田・松葉両城を奪取し、この戦いに勝利した。なお、この戦いは信長の家臣・前田利家の初陣でもあった。

ちなみに織田信友は、その後もさらに信長暗殺計画を企てるが、事前に斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門に知られ、信長に密告されたために失敗し、家臣の那古野弥五郎の内通もあり、かえって清洲城に焼き討ちを受ける等、追い込まれていくことになる。


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