丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「大河内城の戦い」伊勢の国司・北畠を降す!
──永禄12年8-10月(1569年)

信長は美濃攻略時から伊勢国への侵攻を開始していた。そして上洛後まもなく、大詰めを迎えることになる。

背景

伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、信長は伊勢の国人領主・神戸氏を降伏させた際に三男・三七郎(のちの織田信孝)を養子に送り込む等して北伊勢はほぼ手中に治めていた。

南伊勢は北畠氏が支配していたが、永禄12年(1569年)5月、滝川一益が源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じて北畠具教の弟である木造城主・木造具政(こづくり ともまさ)を調略により味方につけている。

具教は北畠氏の前当主で既にこのとき隠居していたものの、その実権を依然として握り続けていた人物である。

彼は同月の12日に木造城を包囲して攻撃(『桑名志』)したものの、滝川一益や神戸氏・長野氏の援軍もあって、8月に入っても木造城を落とせずにいた。

戦いの経過

こうした状況の中、上洛作戦を終えて美濃国に戻っていた信長は伊勢平定に向けて動き出した。両軍の参戦武将は以下。

織田軍

北畠軍

  • 北畠具教
  • 北畠具房
  • 他・・・

8月20日、総勢7万ともいわれる大軍を率いて岐阜を出陣し、桑名(三重県桑名市)まで進軍し、翌8月21日は鷹狩りをして駐留。そして8月23日には木造城に着陣し、この日は雨が降っていたために駐留した。

北畠の軍勢はこのとき既に木造城の包囲を解いて大河内城へ籠城していたといい、その兵数は約8千であったという。

8月26日、織田方の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が先陣を務めて阿坂城を攻撃、塀ぎわまで攻め寄せて浅い傷を受けて一旦後退したが、再度攻めたてて落城させた。続いて信長は他の支城を無視して北畠具教・具房父子が立て籠もっている大河内城へ進軍。8月28日には四方より大河内城を包囲し、城の周囲に鹿垣を2重3重にめぐらし、さまざまな方面からの道を遮断したという。

9月8日には、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通に夜討ちを命じ、3隊に分かれて攻めかかった。しかし、雨が降り出したために味方の鉄砲は役に立たなかったという。
翌9日には兵糧攻めで攻略するつもりで陣を置いており、滝川一益に命じて多芸の谷にある国司の館をはじめとして、その近辺をことごとく焼き払い、稲作をなぎ払って捨てさせたという。
籠城の用意も不備のままに大河内城内へと駆け込んだ者もあり、城内では徐々に餓死者も出始めるようになる。

そして10月3日、ついに北畠具教・具房父子は降伏し、和睦という形で決着がついたのであった。

この時の和睦の条件は以下、織田側に有利なものとなった。

  • 信長の次男である茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養継子とすること。
  • 大河内城を茶筅丸に明け渡し、具房、具教は他の城へ退去すること。

こうして信長は伊勢国をほぼ平定、のちに北畠具教を抹殺して完全に伊勢攻略を終えることになるのである。


 PAGE TOP