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「信貴山城の戦い」梟雄・松永久秀の最期となった合戦
──天正5年10月(1577年)

信貴山城の戦いとは、織田信長に従属していた松永久秀が謀反を起こし、大和国・信貴山城で攻め滅ぼされた戦いである。

戦いの背景

戦いの舞台となった信貴山城は、現在の奈良県生駒郡にある城で松永久秀の居城であった。

さて、この戦いの事の発端だが、前年の天王寺砦の戦いで大和国守護の地位にあった塙直政が討死し、信長はその後任に筒井順慶を指名したことにある。

かつて久秀と順慶の2人は敵同士として大和国で争うライバルであったが、久秀の方が先に信長に従属して大和一国の支配者という立ち位置を得ていた。やがて信長と将軍義昭が敵対すると、久秀は信長に背いて将軍方に加担。だが、将軍義昭が追放となってまもなく、信長に降伏して命は助けられたものの、大和の支配権は没収という運命をたどる。一方で順慶も、この頃には信長に接近しており、時期はハッキリしないが、信長に臣従したのである。

合戦の経過

こうして2人は織田家臣に組み込まれたのだが、天正5年8月(1577年)佐久間信盛の与力として本願寺攻めに参加していた久秀は、子息・久通とともに天王寺城を抜け出し、信貴山城に立て籠もった。再びの謀反である。
謀反の理由に、順慶が大和国守護に任命されたことに不満を抱いた、また、茶人として名高い久秀が信長に茶道具の名器を献上したこと等の説がある。

久秀が籠城したのは、当時信長は本願寺勢力や越後の上杉謙信と対立していたところにある。この両者と組むことで信長と戦えることを確信したとされている。そんな久秀の2度の裏切りを知り、信長は激怒すると思いきや、意外なことに松井友閑を派遣して久秀を説得しようとしたようだ。だが、その説得もうまくいかず、信長は結局は人質としていた久秀の2人の孫を殺害し、両者の対立は決定的となったのである。

同年の9月には、手取川の戦いで謙信が柴田勝家ら織田軍を敗走させるが、それ以上に侵攻することはなく、久秀にとって期待はずれに終わってしまった。そして、信長はこうした情勢をみた上で久秀討伐軍を派遣した。

10月1日、明智光秀・筒井順慶らの軍勢が松永の支城・片岡城を攻めたててこれを陥落させると、3日には嫡男・織田信忠を総大将とした織田軍が信貴山城を囲んだ。史料には佐久間信盛・羽柴秀吉丹羽長秀らが出陣したとある。
織田軍の兵力はおよそ4万を超えており、久秀方の8千程度では多勢に無勢であり、太刀打ち出来ない状況にあった。久秀は城名人と言われるほど籠城戦を得意としていた人物であり、そうした中でも織田の大軍によく持ちこたえた。大軍といえども、一時に攻撃することはできず、少しずつ城内に攻め込んでくる織田兵を少数で食い止めることで持ちこたえていたワケだ。しかも久秀配下の200人が突撃を敢行し、織田兵の数百を戦闘不能に陥らせる等したという(『和州諸将軍伝』)。

だが、時の経過とともに籠城戦が苦しい展開となっていった。そこで久秀は、石山本願寺に援軍要請を行ない、使者を務めた森好久が本願寺鉄砲隊200人を引き連れて信貴山城に帰ってきたことで城内の士気を一気に高めることに成功。さらに毛利軍から援軍が届くとの報も入り、久秀は喜んだという。だが、この鉄砲隊200人が結果的に落城のきっかけになってしまうことは、当時の久秀も知るよしもなかったのだろう。
実のところ、森好久はかつては筒井順慶の譜代家臣であり、彼が引き連れてきた鉄砲隊200名は順慶から預けられた隊であった。 つまり、森好久は織田方の順慶に通じ、信貴山城の内情を知らせていたのである。

そして10月10日、鉄砲隊200名が城内で反乱を起こした。これにより城内は混乱に陥り、ついに久秀は久天守に火をかけて自害したのであった。なお、久秀の最期は、天下の名物「平蜘蛛の茶釜」とともに自爆したとの説があるが、後年に脚色されたとの見方が強い。


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