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「天王寺砦の戦い」信長、数的優位の本願寺を蹴散らす!
──天正4年5月(1576年)

天王寺砦の戦いは織田信長と石山本願寺との戦いの一つで、現在の大阪府大阪市にある摂津天王寺が戦いの舞台となった。 一向一揆勢の大将は鈴木孫一であった。この戦いの戦力は一向一揆勢が1万3千といわれたのに対し、織田勢は3千程で交戦した。

合戦の背景

石山本願寺と織田信長の戦いは、元亀元年(1570年)本願寺顕如が反織田の兵をあげたことに始まり、各地でたびたび合戦状態が続いた。

天正4年(1576年)に入ると、信長に追放されていた将軍足利義昭が、毛利輝元を中心に再び反織田の包囲網構築を企て、毛利の支援を得ることに。そして本願寺勢は信長との戦いに備え、幾内各地の一向衆門徒に呼び掛けて5万もの兵力を動員することに成功。一時休戦していた両軍ではあったが、これをきっかけに再び戦いがはじまることになる。

戦いの経過

これに危機感を感じた信長は、同年4月14日、大阪方面で本願寺との小競り合いの報告を聞いてすぐさま荒木村重・細川藤孝・塙直政・明智光秀らに出陣命令を出した。この時、信長は光秀や細川氏に対して書簡を送り、以下のような指令を出している。

  • 本願寺の周辺にある麦畑を荒らし、収穫できないようにすること。
  • 油断をしないようにすること。
  • 城に立てこもっている信者達は男女共に許すという立て札を立てるようにすること。

信長は信者達に関しては以前と違い、寛大な対処をすると言っているのに対し、その指導者ともいえる坊主達に関しては許すことをしないように、ときつく申し付けている。

信長は三手に分かれて本願寺を包囲するように指示を出し、以下、それぞれに砦を築かせた。

  • 荒木村重:尼崎より海を経て野田に砦を構築
  • 明智光秀・細川藤孝:北東の守口(=守口市)・森河内(=東大阪市)に布陣。
  • 塙直政:南方わずか三キロメートルの天王寺に進出させる。

塙直政が戦死、天王寺砦が窮地に

しかし、本願寺方は海岸線に多くの砦を構え、雑賀衆や毛利氏との連絡も可能な、難波へ続く水路も確保していた。この水路を断つ必要があると感じた信長は、5月3日に本願寺の砦の一つ・三津寺の砦に攻撃を仕掛ける。
この攻撃は和泉・根来衆を率いた三好康長が先鋒を務め、大和衆・南山城衆を率いる塙直政が後に続き、対する本願寺勢は1万もの兵力で迎え撃った。

本願寺の軍勢には、当時最強と呼ばれていた鉄砲部隊の雑賀衆が味方についていたため、鉄砲による攻撃を受けた塙直政や一族らは戦死。織田勢は一気に崩れて三好康長は逃亡し、一方で勢いづいた本願寺勢は天王寺城まで押し寄せてきた。天王寺城には明智光秀と援軍にきた佐久間信栄が守備していたが、これによって危機的状況に追い込まれ、京都に滞在している信長へ援軍を要請するハメとなった。天王寺城は、城というより貧弱な砦にすぎず、光秀らは古畳や殺した牛や馬を盾として本願寺勢の攻撃を防ぐ有様だったという。(『当代記』)

信長、自ら出陣へ

これを受けた信長は、5日早朝に自ら出陣したが、このときのお供はわずかに100騎ほどといい、さらには河内国若江城に入城して後続の軍を待つも、各国に出した召集命令があまりに急だったため、兵力がなかなか集まらなかったという。
その頃、天王寺城からは2~3日しか持ちこたえられない報告が来ていたことから、5月7日に信長は3千の兵のみで進軍し、本願寺の1万3千といわれる本願寺勢に立ち向かった。

そして、信長は兵を以下のように3つに分け、本能寺軍の鉄砲部隊を突破して、天王寺砦の兵達と合流することに成功するのである。

その後、信長は勢いにのって本願寺を攻撃することを提案するものの、家臣達から猛反対を受けるが、信長は強引に意見を通して積極的な攻勢に出た。織田勢は陣営を立て直しつつあった本願寺撃破すると、さらに石山本願寺の木戸口まで追撃。この戦いで織田軍は2千7百余もの敵を討ち取ったといわれている。

戦後

戦後、信長は付城を10か所ほど大坂に作るように命じ、6月5日になって若江城へと戻った。これで両者の戦いの幕が閉じたわけではなく、以後、本願寺は籠城戦へと切り替えて信長軍に対抗するようになる。

なお、主に本願寺攻めの任務にあたっていた塙直政が討死したため、後任には佐久間信盛・信栄父子が天王寺城を守備することになった。そして信長は、7か国もの与力を付けた大軍団(=大阪方面軍団)の指揮官に、宿老の信盛を任命。本格的に石山本願寺攻略の体制を構築するのである。


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