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吉法師(織田信長の幼名)の誕生と元服(1534-47年)

天文3年(1534年)5月、尾張国で織田信秀と土田氏との間に次男・吉法師(きっぽうし)が誕生した。のちの信長のことである。

吉法師は生後まもなく乳母のもとで養育されることになるが、非常に疳の強い子で乳母の乳首をかみ破るため、何人もの乳母が交替したと伝わっている。ただ、池田恒利の妻(養徳院)を乳母としたところ、不思議なことにその乳首だけはかみ破らなかったといい(『池田家履歴略記』)、養徳院はのちに「大御乳さま」と敬称されたという。

天文11年(1542年)には父・信秀から那古野城を譲られて城主となり、家老として一番家老・林秀貞、二番家老・平手政秀、三番家老・青山与三右衛門、四番家老・内藤勝介の4人をつけられ、信秀自身は翌天文12年(1543年)に熱田の近くに古渡城を築いてそこに居城したという(『信長公記』)。

吉法師は何かと不自由なことが多かったが、そのようななかで、天王坊という寺に通って学問をしている。
一方で、日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話なども知られており、身分にこだわらずに民と同じように町の若者とも戯れるなどしたといい、まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せていたという。

元服と初陣を果たす

天文15年(1546年)、吉法師は家老4人を伴って父・信秀の居城の古渡城に赴き、元服して"織田三郎信長"を名乗ることになった(『信長公記』)。
このときの元服の式では酒宴が催され、同時に加冠の式などが行なわれた。

"三郎"という名は父・信秀も称した仮名であり、"信長"の "信" という字は弾正忠系織田氏の通字である。
ちなみに一説によれば、この"信長"の命名について、これを依頼された禅僧の沢彦宗恩が、将来天下を掌握するめでたい名として選んだものであるという(『政秀寺古記』・『張州府志』)が、定かではない。

このときの信長は13歳であった。

天文16年(1547年)、元服を果たした信長はさっそく、今川義元方の三河国(愛知県)吉良の大浜城の攻略のために出陣して初陣を飾っており、このときの後見役は平手政秀が務めたという(『信長公記』)。
また、同年に信秀は古渡城を破却して新たに末盛城を築いて居城としている(『信長公記』)。

家康と出会った?

また、このころの織田方は安祥城を拠点として西三河方面に進出、今川氏と争いを繰り広げており、そうした中で松平竹千代(のちの家康)が織田方へ送られてくる事件が起きている。

松平氏は三河国の土豪で、竹千代の父で松平家当主の松平広忠は駿河国の今川氏に従属しており、6歳の竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られたのであるが、その護送途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ引き渡されたのであった。

広忠は今川氏への従属を貫いたために、竹千代はそのまま人質として尾張国に留め置かれ、この時に織田信長と知り合ったとの見方もあり、これが後の信長・家康連合の固い絆につながっていくことになる。


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