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織田信包

織田信包(おだ のぶかね、1543?-1614年)は信長の弟。信長の伊勢攻略で北伊勢の豪族・長野工藤家に養子に出され、伊勢国の一部支配を担う。
その後は各地を転戦して功を重ね、織田一門で信忠・信雄に次ぐ3番目の地位の重鎮となった。

信長死後は秀吉と対立した甥の織田信孝や信雄ら織田一門が衰退する中、秀吉に従って上り詰めたが、秀吉の天下統一後は改易の憂き目にあった。

秀吉死後は大阪城で秀頼を補佐し、大阪冬の陣(1614年)の直前に死没した。

経歴

1543年(天文12年)に尾張の織田信秀の子として誕生。生母は不明であるが "土田御前" と推測されている。
信長の弟にあたり、織田信秀の四男と伝わっている。

伊勢攻略が初見

信包の幼年の頃の記録は一切残されていないようであり、初見は1568年(永禄11年)の信長による伊勢攻略である。

伊勢国は南朝以来の国司・北畠氏が支配していたが、信長は養子を送りこむことでこれを攻略していった。

信包は信長によって北伊勢の豪族・長野工藤家に養子として送り込まれ、"長野三十郎"と称して長野氏当主となり、伊勢国上野城を居城とした。
その後まもなくして養子縁組が解消されると、織田姓に復して "織田上総介"を称した。

このころに信包は長野工藤氏の第15代当主であった長野藤定の娘を正室に迎えている。

また、信長はこの他にも北伊勢の神戸具盛と講和して、三男・信孝を神戸氏の養子として送り込んでいる。

信長は翌1569年(永禄12年)の大河内城の戦いで北畠氏に勝利し、次男・織田信雄を養嗣子として送り込んだが、信包はこの時に伊勢国庵芸郡上野城主となり、伊勢国庵芸郡・安濃郡あたりの支配にあたったとされている。

織田勢力の拡大とともに各地を転戦

その後は伊勢長島一向一揆(1574年)、越前一向一揆(1575年)、雑賀攻め(1577年)、石山本願寺攻め(1578年)、有岡城の戦い(1578-79年)など各地を転戦。織田信忠が信長の後継者として諸将を率いるようになってからは、信包は信忠を補佐する立場として従った。

信包の地位であるが、1581年(天正9年)の京都馬揃えでは織田信忠、織田信雄に続いて3番目に位置していた。ちなみに4番目は織田信孝である。
また、『信長公記』では織田一門の名が連なる場合、例外なく1に信忠、2に信雄、3に信包、4に信孝の順で記されていることからも、実質的に織田一門で三番目の地位に位置していたものと考えられる。

また、同年の第二次天正伊賀の乱で功をあげ、戦後に伊賀国の一郡を宛がわれた。

信長死後

信長死後は秀吉・織田信雄を支持し、伊勢津城15万石を領して "津侍従" と称された。

1583年(天正11年)に織田家中で羽柴秀吉と柴田勝家・甥の信孝らの対立(賤ヶ岳の戦い)、さらに翌1584年(天正12年)の秀吉と織田信雄・徳川家康連合の対立(小牧・長久手の戦い)のいずれも秀吉方に味方し、織田一門と対立する立場をとった。

しかし、1594年(文禄3年)に秀吉から改易処分を下され、伊勢安濃津を没収されて近江2万石に移封された。改易の理由は太閤検地で石高増加となったが、それに見合うだけの任務を果たさなかったという。

まもなく剃髪して"老犬斎" と号して京都慈雲院に隠棲したといい、その後は秀吉の御伽衆(=話相手をする役のこと)になった。

秀吉晩年の1598年(慶長3年)には丹波国氷上郡柏原3万6,000石に移封となった。

秀吉死後

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは石田三成方の西軍に味方して丹後国・田辺城への攻撃などに加わったものの、戦後は家康から罪を問われずに所領は安堵された。以後は大坂城で豊臣秀頼に近侍し、1614年(慶長19年)の大阪冬の陣の直前に病死した。


略年表

  • 1543年(天文12年)、織田信秀の子として誕生。
  • 1568年(永禄11年)、北伊勢を支配する長野工藤家に養子入りし、伊勢国上野城を居城とした
  • 1569年(永禄12年)、伊勢国庵芸郡上野城主となる
  • 1574年(天正2年)、伊勢長島一向一揆攻めに従軍
  • 1575年(天正3年)、越前一向一揆鎮圧に従軍
  • 1577年(天正5年)、紀州征伐に従軍
  • 1581年(天正9年)、第二次天正伊賀の乱に従軍
  • 1583年(天正11年)、賤ヶ岳の戦いでは秀吉方に与する
  • 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いでは秀吉方に与する
  • 1588年(天正16年)、従三位左中将に任官
  • 1590年(天正18年)、豊臣政権による小田原征伐に従軍
  • 1594年(文禄3年)、秀吉から改易され、その後に出家して老犬斎と号し、京都慈雲院に隠棲する
  • 時期不明、秀吉の御伽衆となる
  • 1598年(慶長3年)、秀吉から丹波国氷上郡柏原(=現在の兵庫県丹波市柏原)3万6,000石を与えられる
  • 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでは西軍に参加。戦後は家康から罪を許されて所領を安堵
    以後は大坂城で豊臣秀頼を補佐した。
  • 1614年(慶長19年)、大坂冬の陣の直前に大坂城内で急死


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