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信長の実施した経済政策「楽市・楽座」とは?

楽市楽座のイメージ画像
戦国時代を描くテレビドラマを見ていると、たびたび描かれるシーンの一つに、楽市・楽座の賑わいがある。 時代の変革者である織田信長の斬新さを表すワンカット的な位置づけになっており、安土城下に暮らす人々が自由に経済活動を行うことができて活気づいている様子として描かれるのが大抵のケースだろう。もちろん、それで間違いというわけではないのだが楽市・楽座とは何なのだろう、少し踏み込んで解説してみたい。

楽市・楽座の定義

まずは歴史用語としての一般的な定義から入ろう。歴史事典などでよく用いられるのは、織田信長豊臣秀吉が安土城下や長浜城下で実施した経済政策の名称(法令の名称とも)であり、朝廷や公家もしくは寺社勢力と結託して貢納と引き替えに与えられていた独占的な経済活動の保証を無効にするというもの。これはひいては城下の民であれば、誰でも商品経済に参加できるというものである。

現代風にわかりやすくいえば、特定組織にのみ許諾されていた経済活動の規制緩和である。「楽市・楽座」という言葉も "市""座" に対しての「楽」、すなわち開放を意味している。つまり、市に制限されていた経済活動を城下のどこでも行うことができるようにしたことであり、座に与えられていた特権を廃して誰でも自由に物品の売り買いができるようにしたことである。

楽市・楽座の目的は?

楽市・楽座の政策が実施されることにより、城下の民は生き生きと経済活動ができるようになったというふうにドラマでは描かれる。

これは民を善政を垂れるために行われたということなのだろうか。そうした単純な理解ではなく、信長の活動全般に見られる対守旧派の闘争という見方をした方が分かりやすい。比叡山焼き討ちに象徴されるように、自らの勢力伸長を阻む既得権益者に対する容赦のない圧迫という図式である。

経済活動における守旧勢力というと、前段で触れたように貢納を条件に経済活動の独占を許されてきた組織である。扱う品目ごとに存在していたそうした組織が "座" であり、特権業者の団体なのである。それらの勢力を削ぐには、新しく課税を命じるという方法もあるが、根本的に力を奪うという意味では独占権そのものの否定の方が有効である。そうした意味合いで行われたのが "市" や "座" を無効とすること、楽市・楽座の制だったわけである。

楽市・楽座の歴史

ところで、楽市・楽座は信長の専売であるかのように思われているところもあるが、歴史的には先行事例がないわけではない。

南近江を支配していた守護大名、六角定頼による観音寺城下における天文18年(1549年)の楽市令である。もっとも詳細な内容が記録されているわけではなく、実体を伴ったものだったかどうかは不明である。
同様に永禄9年(1566年)に発給されたとされる今川氏真(今川義元の息子、駿府の守護大名)の楽市令も古い事例の一つである。史料的な疑義がないわけではないが、富士大宮で行われていた月六度の市は以後は停止して「楽市となすべし」と記されている。

実施の様相や効果がどうだったかはさておき、こうした先行政策を参考にして、永禄11年(1568年)に各支配地域の城下町などで実施されたのが、信長による楽市・楽座の制度だったのである。

楽市・楽座とその周辺

さて、こうした楽市・楽座であったが、自由な商業活動が促進されることによって多くの人々が城下に集まるようになった。それだけではなく、商品となる物資の搬入も飛躍的に増えた。これは運搬事業に携わる人々にとっても大きな恵みとなった。

また、商行為の担い手が増えるということは、それを支える商品の増加も求められる。代表的な商品である農作物を例にとっても、周辺農村における生産意欲を向上させる大きな動機になった。

これらは総合的な観点に立つと、地域全体の生産能力を引き上げることとなった。一部の限られた集団に独占的な権益を与えることで、そこから上がってくる貢納以上の収益が結果的にはもたらされることになったのである。

古代から中世にかけては、京都をはじめとした大都市における経済活動は、錦座や綿座のような業種ごとに組織されていた座によって担われてきた。支配者からの庇護を受けつつ、事業の継承や生産力の向上、あるいは技術の発展も行われてきた。緩やかながらも着実な進化がなされてきたのは、独占という業態があったからともいえる。
しかし、室町時代以降、商品経済の規模が全国的に大きくなるにつれて独占による弊害の方が目立つようになり、時代の要請に応じて実施されたのが楽市・楽座であった。制度が実施された地域の商取引だけでなく、周辺地域や関連する産業全般を巻き込んだ経済変革が生まれ、中世から近世への移りかわりを促進する結果となったのである。

時代の分水嶺

日本史を俯瞰すると、応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱は時代を分ける重要な目印である。大乱を経て支配構造が覆り、新時代の息吹が各地に見られるようになった。信長のような戦国大名が頭角を現すのも、その一つだ。

本稿で取り上げた楽市・楽座もまた、信長が行った画期的な善政というメルヘン的理解で終わらせるのではなく、時代が求めたうねりの一つと見るべきだろう。実施者がたまたま時代の寵児、織田信長だったというだけである。


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