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信長の父・信秀の死と家督継承
──天文21年3月(1552年)

天文21年(1552年)3月、信秀が疫病にかかり、いろいろ祈祷や治療をしたけれども治らず、ついに末盛城で没した。※信秀の没年については諸説あり。
信秀を生前に建てた万松寺の前住職とすることにし、国中の僧侶を集めた信秀の葬儀は盛大に執行され、僧侶は約三百人にも及んだという。

このときの信長の奇行は有名だ。

焼香に立った信長は不適切な出で立ちで、抹香をわしづかみにして仏前めがけて投げつけたという。これに対して弟の信勝は折り目もしっかりした肩衣に袴を着る正装姿であり、礼にかなった作法であった。信長について皆「あの大馬鹿者が」と口々にうわさしたが、ある旅僧一人だけが「あの方こそ国持ち大名になるお人だ」と言ったという(『信長公記』)。

信長の葬儀での振る舞いは父・信秀に対する精一杯の愛情の表現とか、国内の反乱分子をみきわめるための演出とみる見方もある。

こうした中で嫡子の信長は19歳で家督を継ぎ、弟の信勝は柴田勝家佐久間信盛らを付されて末盛城に入った。そして、尾張に一大勢力を築いた信秀の死は尾張国内の動揺と混乱のはじまりとなる。


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