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青年信長の結婚と家督継承(1548-52年)

信長、濃姫(鷺山殿)を娶る

天文17年(1548年)の秋頃、父・信秀は美濃の斎藤道三と和睦する。このとき、信長の博役・平手政秀の才覚で信長と道三の娘・濃姫との縁組みが整ったという(『土岐累代記』『信長公記』など)。
このとき信長15歳、濃姫は14歳であり、これは典型的な政略結婚であったとみられている。

当時の織田氏は、国外の敵として斎藤道三のほかに今川義元とも争っており、さらには尾張国内にも敵対勢力が存在し、しかも道三とは前年に戦って大敗していた。

こうした背景から、織田方は困難な情勢を打破する必要性に迫られていたのである。

ちなみに実際に結婚したのは、翌年2月24日とも伝わっている(『美濃国諸旧記』)。

西三河を失う

道三と同盟を結んだものの、天文18年(1549年)11月9日には太原雪斎を大将とした今川方が三河安祥城へ攻めてきて陥落させられ、城主で信長の庶兄・信広が捕えられたが、尾張に抑留していた松平竹千代(のちの家康)とを交換する形で信広を返還してもらった(『創業記考異』)。

竹千代はようやく本来の今川義元の人質として駿府へ連れて行かれ、一方で安祥城を奪われた織田方は三河の拠点を失うことになった。

さて、同年の11月には信長の文書の初見がみられる。尾張熱田八ヶ村に制札を下し、そこに「藤原信長」と署名している(『加藤秀一氏旧蔵文書』)。
これをみると本姓は藤原氏ということなのかもしれないが、織田氏の出自については諸説あってよくわかっていない。

「大うつけ」と言われた信長の日常

信長の16歳~18歳頃までは特にこれという遊びにふけることもなく、馬術を朝夕に稽古し、3月から9月までは川で泳ぎの鍛錬をして泳ぎは達者であった。また、竹槍の訓練試合を見て、槍の柄の長さをより長く揃えさせるなど、槍の長さの有効性にも気づいており、弓・鉄砲・兵法の稽古や鷹狩りなども好んで行なっていたという(『信長公記』)。

このように信長の青年期の日常は戦国武将に欠かせない鍛錬そのものであったようだ。しかし、身なりや振る舞いといえば、世間からみて問題だったようである。

信長の服装はゆかたは袖をはずし、半袴、火打ち袋などをぶら下げていた。さらに髪は茶筅髷(ちゃせんまげ)でそれを紅や萌黄色の糸等で結び、朱色の大刀を差しており、従者にも皆、朱色の武具を着けるように命じていたという。
また、行儀の悪さとしては、町中を歩きながら、人目もはばからずに栗・柿・瓜等のかじり食い、餠の立ち食いなど。また、人に寄りかかっては人の肩にぶらさがって歩くなどしていたという。

こうした様子をみた周囲の人々は信長を「大うつけ」としか言わなかったという。

父・信秀の死と家督相続

こうした中、天文21年(1552年)3月、信秀が疫病にかかり、いろいろ祈祷や治療をしたけれども治らず、ついに末盛城で没した。※信秀の没年については諸説あり。
信秀を生前に建てた万松寺の前住職とすることにし、国中の僧侶を集めた信秀の葬儀は盛大に執行され、僧侶は約三百人にも及んだという。

このときの信長の奇行は有名だ。

焼香に立った信長は不適切な出で立ちで、抹香をわしづかみにして仏前めがけて投げつけたという。これに対して弟の信勝は折り目もしっかりした肩衣に袴を着る正装姿であり、礼にかなった作法であった。信長について皆「あの大馬鹿者が」と口々にうわさしたが、ある旅僧一人だけが「あの方こそ国持ち大名になるお人だ」と言ったという(『信長公記』)。

信長の葬儀での振る舞いは父・信秀に対する精一杯の愛情の表現とか、国内の反乱分子をみきわめるための演出とみる見方もある。

こうした中で嫡子の信長は19歳で家督を継ぎ、弟の信勝は柴田勝家・佐久間信盛らを付されて末盛城に入った。そして、尾張に一大勢力を築いた信秀の死は尾張国内の動揺と混乱のはじまりとなる。


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