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大うつけ信長に対し、平手政秀や斎藤道三は?(1552-53年)

尾張国内で勢力を拡大していた父・織田信秀が死去すると、周囲から「大うつけ」呼ばわりされている青年の信長が跡を継いだ。
評判の良くなかった青年信長だが、当主となってからの織田家はどうなったのだろうか?

実は信秀の死後、まもなくして尾張国内では色々と混乱が生じるのだ。

赤塚の戦い

信秀の死後、信秀に重用されていた鳴海城主・山口教継(のりつぐ)が駿河の今川義元に寝返った。

教継は子の教吉を鳴海城に置き、笠寺城に砦を構えて今川方の5人の将(葛山長嘉・岡部元信・三浦義就・飯尾乗連・浅井政敏)を招き入れて配置、自らは桜中村城で守備を固めたのである。

天文21年(1552年)4月17日、この報を聞いた信長はさっそく鳴海城に向かって兵800ほどで那古野城を出陣し、小鳴海の三の山へ登って着陣した。 それに対して山口教吉が鳴海城を出陣して三の山の東、鳴海からは北にある赤塚に1,500の兵で出陣して来た。これを見て信長も動きだし、両者は先陣を繰り出して赤塚の地(=現:愛知県名古屋市緑区鳴海町赤塚)で戦闘に突入したという。

合戦は巳の刻より午の刻(おおよそ午前10時から正午ごろ)まで行なわれ、両者入り乱れての接近戦となった。矢に射られて落馬した者を巡って双方から引っ張り合う光景もあったといい、そうした中で信長側は30騎が討ち死にした。

しかし、元々は味方同士でお互いに顔見知りが多かったこともあったことから、最後には生け捕りになった者を交換、さらに敵陣に逃げ込んだ馬をもお互いに返し合ったといい、結局は勝敗付かずに双方とも帰陣したのであった。

萱津の戦い

しかし、尾張国での混乱はなおも続く。

同年の8月15日、赤塚の戦いの勃発に乗じて今度は清洲織田氏の重臣・坂井大膳が坂井甚介・河尻与一・織田三位らと謀り、信長方の支城である松葉城とその並びにある深田城を襲撃。松葉城主・織田伊賀守と深田城主・織田信次(信秀の弟)は無理やり人質とされてしまった。

尾張下四郡の守護代・清洲織田氏の当主は織田信友であったが、既に力はなく、実権は重臣の坂井大膳が握っていた。信秀の生前にはこれら清洲衆を守護ごと掌握していたが、家督を継いで間もない信長にはまだそのような力はなかったのである。

翌16日にこの報を聞いた信長は早朝に居城・那古野城を出陣。そして、守山城からは叔父の織田信光が応援に駆けつけてきた。兵を松葉口・三本木口・清洲口に分けて信長・信光軍は一手になって庄内川を越し、清須城外の海津(萱津、=現:愛知県あま市甚目寺)付近へと移動、これに対して清須城からは敵将の坂井甚介が軍勢を率いて出撃してきた。

戦いは辰の刻(午前8時ごろ)にはじまり、数刻交戦の末、織田方の中条家忠と柴田勝家が二人がかりで敵将・坂井甚介を討ち取り、その他にも清洲方の50騎を討ちとったという。

松葉口では清洲方を惣構えの中へ追い入れて、真島の大門崎で辰の刻から午の刻(おおよそ午前8時から正午ごろ)まで交戦が行われた。数刻の矢戦の末、多数の負傷者がでた清洲方は本城に退却した。また、深田口では三本木(=現:愛知県海部郡大治町三本木)の町に要害がなかったため、進軍して清洲方の侍は30余人を討ち取ったという。

こうして信長方は清洲方を降参させ、深田・松葉両城を奪取し、この戦いに勝利した。なお、この戦いは信長の家臣・前田利家の初陣でもあった。

ちなみに織田信友は、その後もさらに信長暗殺計画を企てるが、事前に斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門に知られ、信長に密告されたために失敗し、家臣の那古野弥五郎の内通もあり、かえって清洲城に焼き討ちを受ける等、追い込まれていくことになる。

宿老・平手政秀の自害

天文22年(1553年)の閏1月13日、信長の宿老で傅役を務めた平手政秀が突如自害してしまう。

一般には "大うつけ" の信長を諌めた死であったとみられているが、信長と政秀との間に確執も生じていたことも記録にあり、その真相は定かではない。

『信長公記』によれぱ、信長が平手政秀の長男の持つ優れた馬を所望したが、これを断られたことで次第に信長と政秀父子に確執が生じたという。そして、信長の実直でない有様を憂いた政秀が、前途に見込みがないと言って腹を切ったというのである。

ちなみに翌年信長は、政秀の霊を弔うため、沢彦宗恩を開山として政秀寺を建立している。

"大うつけ"の信長ならではの事件だったが、一方で濃姫の父・斎藤道三も "大うつけ"の信長 に強い関心をもっていた。

義父・斎藤道三と初の会見

同年の4月下旬(※天文18年説もあり)に、道三は巷での "大うつけ" のうわさに不安をおぼえたのか、娘婿の信長が本当に "うつけ" かどうかをその目で確かめたくなり、会見を申し入れたようだ。

信長と道三の初対面であり、会見は濃尾国境に近い富田の聖徳寺で行なわれたため、「正徳寺の会見」といわれている。

さて、このとき道三は信長を驚かせて笑ってやろうとしたが、会見では逆に信長に度肝をぬかれたという話が伝わっているので、以下にみてみよう。

※『信長公記』より

道三は近頃、人々から「婿殿は大馬鹿者ですぞ」と聞かされており、「信長はそうではない」といつも言っていたが、道三は自信がなくなったのか、信長に実際に会って真偽を見極めてみることにした。
信長は道三の申し出に遠慮もせずに承諾し、木曾川・飛騨川という大河を舟で渡り、出かけて行った。

-- 尾張国正徳寺 --

道三は会見の前準備として、7~800人程の家臣に上品な身支度をさせて正徳寺の御堂の縁に並んで座らせており、信長を迎えたときに驚かせて笑ってやろうと企んでいた。

斎藤道三

ふっふっふっ、大うつけがどれ程の器量を持っているのか、この目で確かめてやるわ。

斎藤道三アイコン

その上で、道三は町はずれの小家に隠れて、信長が来るのを待って覗き見しようとしていた。

すると信長の行列がやってきた。

斎藤道三

!!!

斎藤道三アイコン

信長の姿はいつもの "たわけスタイル" であったが、引き連れているお供衆は7~8百人ほどで柄三間半の朱槍500本、弓・鉄砲500挺を持たせるという立派な装備であり、元気な足軽を行列の前に走らせてきた。

さらに、会見場所である寺に着いたところで、信長は屏風を引きまわし、さっと立派な正装に着替えたのである。

信長家臣たち

家臣A:おおお!!なんと立派な!
家臣B:(・・さてはこれまでのたわけぶりは、わざとなされていたのか!)

家来アイコン

この信長の身支度を見て、織田家中の者たちはみな肝をつぶし、誰もがしだいに事情を了解した。

信長は御堂へ出ると、縁の上がり口で道三家臣の堀田道空が出迎えて「お早くおいでなさいませ」と声をかけられるが、信長は知らんぷりして、道三家臣らが居並ぶ前をすいすいと通り抜けて、縁の柱に寄りかかっていた。

しばらくして、屏風をおしのけて道三が出てきた。

織田信長アイコン

信長

・・・・・

斎藤道三

・・・(くっ!生意気なやつめ!)

斎藤道三アイコン

信長はそれでもまだ知らん顔をしていたので、堀田道空が近づき、「こちらが山城守殿(道三)でございます」と言うと、

織田信長アイコン

信長

お出になったか。

そう言って敷居の内へ入り、道三に挨拶をしてそのまま座敷に坐った。
そのうち、道空が湯漬け(だし味のついた湯をかけた飯 )を給仕した。そして互いに盃をかわし、信長と道三の対面は滞りなくお開きとなった。

斎藤道三

・・・また近いうちにお目にかかろう。

斎藤道三アイコン

道三はにが虫をかみつぶしたような様子で、そう言って席を立った。

道三が信長に見送られて帰るとき、道三の兵の槍は短く、信長の兵の槍が長いのを見て、道三はおもしろくなさそうな顔で、ものも言わずに帰って行った。

そして帰路の途中で道三の家臣が言った。

道三家臣

どう見ても信長殿は阿呆でございますな。

家来アイコン

斎藤道三

だからこそ無念じゃ。この道三の息子どもが、必ずあの阿呆の門前に馬をつなぐことになろうよ。

斎藤道三アイコン

と言った。そして、それ以後は道三の前で信長を馬鹿者呼ばわりする人は1人もいなくなったという。


道三はこの会見で信長の器量を見抜いたことがうかがえる。

道三が度肝を抜かれたのは、信長がうつけの格好から正装になったことよりも、長槍500本、弓・鉄砲500挺という、家臣たちの武装にあった考えられている。
信長は道三の予言どおり、道三亡き後の美濃国を攻略し、岐阜城を居城としているのである。


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