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「野洲河原の戦い」六角氏に辛勝だった柴田。
──元亀元年6月(1570年)

野洲河原の戦い(やすがわら)

  • 時期:元亀元年(1570年)6月4日
  • 場所:近江国野洲川付近(現:滋賀県野洲市乙窪)
織田軍

六角軍

  • 六角義賢
  • 六角義治
  • 岩成友通
  • 三好康長
  • 斎藤龍興
  • 他・・・

同年5月、おもわぬ義弟・浅井長政の裏切りで命拾いをした信長は、軍勢立て直しのために、宇佐山城に森可成・永原城に佐久間信盛・長光寺城に柴田勝家・安土城に中川重政を置き、自らは美濃国・岐阜城へと戻って長政討伐の準備にとりかかった。
こうした中、かつて信長上洛の際に敗れて伊賀に逃げこんでいた六角義賢・義治父子が甲賀郡から南近江に北進してきたのである。

6月4日、六角義賢・義治父子は近江南部のあちこちで一揆勢を扇動し、野洲河原方面へ軍勢を出してきた。

これに柴田勝家、佐久間信盛らが出動し、野洲河原で足軽部隊に六角方を引きつけさせて落窪(滋賀県野洲市)で交戦。織田軍が討ち取った首は三雲定持・成持父子、高野瀬美作守、水原重久、ほか伊賀・甲賀の屈強な地侍など780人だったという。

ところで、柴田勝家が「ツボワリ柴田」「鬼柴田」と呼ばれる所以がこの戦いにある。

『武家事紀』によれば、六角義賢父子は6月に野洲河原の戦いに先立ち、柴田勝家の守る長光寺城を包囲。水は長光寺城内からは水が出ず、後ろの谷から掛け樋で引いていることを郷民から聞いた義賢は平井甚助に水源を止めさせた。
勝家は残った水を入れた瓶を三つ並べ、このままでは渇して死ぬのは疑いなく、力のあるうちに必死の戦いをしようと言うと、皆が賛成。そこで三つの瓶を打ち割り捨て、翌日に城外へ打って出て六角の旗本を切り崩し、野洲河原で三雲・高野瀬・水原の六角勢を討ち取ったという。


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