丁寧に歴史を追求した "正統派" 戦国Webマガジン

「長島一向一揆」殲滅までに再三の出陣を要した信長の天敵!
──天正2年7-9月(1574年)

歌川芳員『太平記長嶋合戦』

天下の織田信長でさえ、散々に手を焼かされた「長島一向一揆」。(※上記の絵は歌川芳員の『太平記長嶋合戦』)

石山合戦の幕が開けたのち、伊勢長島では大きく3度にわたって本願寺門徒らが蜂起。織田軍がこれを殲滅するまでに、織田一族や馬廻衆など、多くの家臣が討たれている。本願寺勢力はまさに信長の天敵であった…

合戦マップ

時期元亀元年-天正2年(1570-74年)
勢力織田信長 vs 本願寺勢力
場所伊勢国・長島一帯(現在の三重県桑名市)

合戦の背景

長島の地は、尾張国と伊勢国の国境にある木曽川・長良川・揖斐川が合流した河口部にある中洲地帯であり、浄土真宗本願寺派の拠点である願証寺があった。信長が尾張国を統一して以降、周辺の領地を巡って願証寺と対立していたが、かろうじて共存の形が続いていたらしい。

約10年にわたる石山合戦のはじまり

浄土真宗本願寺派の宗主である顕如との関係も、このときはまだ敵対関係にはなかった。 しかし、信長が次第に美濃・伊勢を侵攻し、さらに上洛して幾内にも勢力が及ぶようになると、両者の間には不穏な空気が流れるように。そして元亀元年(1570年)、かつて織田軍に京から追い出されていた三好三人衆の軍勢が摂津に上陸。野田城・福島城を拠点として織田軍との戦いが勃発すると、顕如はその最中の9月に一向衆門徒に檄をとばし、自らも反織田の兵をあげたのである。(野田城・福島城の戦い

野田城・福島城を攻撃するために敷いた信長の布陣は、ちょうど石山本願寺を包囲する形にもなっていた。石山本願寺の場所は野田城・福島城から約4キロ、まさに目と鼻の先。信長が石山本願寺も攻めようとしていたかどうかは定かでないが、顕如は信長の圧力に耐えられずに挙兵したと考えられているようだ。

信長と石山本願寺の長き戦いがはじまったことから、長島も緊張状態となり、まもなく一向一揆が蜂起することになる。

長島一向一揆が蜂起

摂津で三好三人衆や本願寺勢と戦っていた信長だが、その隙を狙って浅井・朝倉連合軍が京に迫ってきたため、やむなく摂津から撤退。今度は比叡山に籠もった浅井・朝倉軍と対峙することになった。(志賀の陣

その最中の11月、長島の地では一向衆門徒が蜂起。21日には願証寺の牽制のために置かれていた信長の弟・信興が襲撃されて自害を余儀なくされ、彼の守備していた小木江城(=愛知県海部郡立田村)も陥落となった。

比叡山で浅井・朝倉連合と対峙していた信長にはどうすることもできなかった。以後、信長は憎き長島一向一揆を殲滅するため、たびたび長島侵攻を行なうのである。


第一次長島攻め

最初の長島侵攻は翌元亀2年5月(1571年)である。信長は12日に岐阜を出陣。信長は以下のように軍を3つに分けたという。

  • 信長本隊:津島(=愛知県津島市)に着陣。
  • 佐久間信盛隊:小木江方面からの中筋口より侵攻。
  • 柴田勝家隊:西河岸の太田口より侵攻。

織田軍は5万余もの大軍といわれ、佐久間の隊は浅井政貞や山田勝盛ら尾張衆、柴田の隊は氏家卜全や稲葉良通ら美濃衆を中心とした部隊だった。一方の一揆勢は、本拠の長島城を中心として各中洲や岸辺に多くの砦や城などを持っており、堅固な防衛体制だったとみられる。

この戦いの詳細はわかっていないが、結果的には一揆衆の守備する城や砦を全く攻略できず、16日には村を放火するだけで退却となったようだ。このとき、信長本隊と佐久間隊は難なく撤退したが、殿を務めた柴田の隊は先回りして待ちかまえていた一揆勢の襲撃に遭い、撤退は困難を極めたらしい。勝家は負傷して旗指物を奪われたといい、勝家に代わって防戦した氏家卜全が矢面に立たされて討死となった。

このように、はじめての長島攻めは失敗に終わった。

第二次長島攻め

次の長島攻めは天正元年(1573年)である。
この年、信長は反織田勢力との抗争で苦難続きだったが、4月に最大の脅威だった武田信玄が病没すると、7月には将軍義昭を追放、さらに8~9月にかけては朝倉・浅井を立て続けに滅ぼして窮地を脱している。

信長は浅井を滅ぼした後、9月6日に岐阜城に戻ってすぐに北伊勢への出陣を計画。というのも、織田方に降っていた北伊勢の門徒の国衆や土豪が寝返ったこともあり、北伊勢を再度平定する必要性が生じたからである。

信長はこの出陣の前、二男の北畠具豊(織田信雄)に伊勢大湊での船を調達するように命じていることから、寝返った将の討伐だけでなく、長島城への攻撃も考えていたことが伺える。大湊の会合衆が信長の要求に難色を示したため、船の調達は難航していたが、信長は待ちきれずに24日に出陣となった。

信長は長島の西方の敵城をターゲットにし、大垣経由で美濃の南端にある太田城に着陣した。一方で柴田勝家・佐久間信盛・羽柴秀吉丹羽長秀といった近江の宿将も参陣すると、彼らは26日に一揆方の西別所城を攻略している。また、10月6日までには坂井城をも陥落させている。

10月8日に信長が本陣を東別所に移すと、多くの敵が次々と信長の陣に出頭して人質を提出していった。だが、白山城の中島将監は降伏してこなかったため、佐久間・丹羽・羽柴らの攻撃を受けて、降伏・開城となっている。

いよいよ本拠の長島への直接攻撃に入る局面だったが、信長は大湊の船の調達がまだ十分でなかったことから攻略を見送りにし、矢田城に滝川一益を入れ、25日に撤退したのであった。
なお、このときの撤退時も前回同様、長島から一揆方が先回りして待ちかまえていたため、殿を務めていた林新二郎が討死して果てている。

第三次長島攻め(殲滅戦)

天正2年(1574年)に行なわれた最後の長島攻めは、想像を絶する激しい戦闘によって一揆勢が殲滅となっている。以下に経過をみていこう。

同年の7月13日、信長は岐阜を出陣して津島に着陣すると、 翌14日には早くも全軍を三手に分けて攻撃を開始。
このときの織田方の兵力は総勢7万もの大軍で、ほぼ総動員だったらしい。参加しなかった主な家臣は、幾内担当の明智光秀、越前への備えとして近江に置かれた羽柴秀吉、そして東美濃で武田勝頼の押さえとされた河尻秀隆だけだという。そして陣容は以下のとおりである。

15日からは九鬼・滝川らの水軍が長島の南方に到着して攻撃を開始。一揆方は追い込まれ、長島・篠橋・大鳥居・屋長島・中江の5カ所に籠城したという。

8月2日の夜には大鳥居の一揆勢が出撃したものの、男女一千人ほどが切り捨てられ、3日に大鳥居は陥落。 12日には篠橋も陥落し、一揆方で脱出した者は残った3か所に逃げ込んだという。その後、信長は兵糧攻めを実施したとみられ、3か所に集約された一揆方の兵糧が尽きるまでにさほど時間はかからなかったようだ。

9月29日、ついに一揆方が本拠・長島城に籠城している者の助命を条件として降伏を申し出、そして長嶋城は開城となった。 だが、ここで信長は一揆衆を許さなかった。
一揆勢が長島から船で退去しようとしたところ、無慈悲なことに鉄砲で攻撃して射殺し、残った者も次々と斬り捨てていったという。これに対して一揆衆たちも黙ってはいなかった。彼ら800余の者は裸になって抜刀し、悲壮にも織田軍に突進してきたのである。

この壮絶な殺し合いにおいて、信長の庶兄の織田信広や弟の織田秀成ら多くの織田一族のほか、大勢の馬廻衆が討たれた。織田軍の包囲を突破した一部の一揆衆は、多芸山や北伊勢を経由して大坂に逃げていったという。信長はこの失態を受け、残りの中江・屋長島城の一揆衆を逃さぬよう、城の周囲を幾重にも柵で囲んで火攻めにした。

四方から放たれた火は燃え盛り、城内にいた男女2万ほどの一揆勢が焼き殺された。ここにようやく長島一向一揆は完全に殲滅となったのである。


 PAGE TOP