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清洲城を奪い取って入城(1554-55年)

村木砦の戦い

天文23年(1554年)1月、三河国・岡崎城から尾張国をねらっていた、あの今川義元がついに動き出す。

義元は水野信元の緒川城攻略をねらい、緒川城の北に位置する尾張国知多郡村木(=現:愛知県知多郡東浦町森岡)に砦を築きはじめた。
水野信元は織田勢力と今川勢力の境界、すなわち尾張と三河にまたがって領地を所有しており、信長にとっては父・信秀の三河侵攻の頃から織田家と協力関係を築いていた貴重な味方であった。

今川軍が砦を築くと、これに呼応する形で織田方の寺本城も今川方に寝返り、信長の居城・那古野城と緒川城の間の道を塞いでしまう事態となった。このため信長は寺本城を避けて船で海を渡り、背後からの砦攻撃を計画し、また一方で信長の留守中に敵対する織田信友によって那古野城が攻め込まれるのを事前に防ぐべく、岳父・斎藤道三にも加勢を求めたのであった。

信長に援軍依頼を受けた道三は同年1月18日、重臣の安藤守就に一千の兵を与えて派遣し、毎日報告をよこすように命じた。

20日、安藤守就が尾張に到着すると、信長はすぐに礼を述べにいったという。翌日出陣予定の中、家臣の林秀貞・通具兄弟が不服を言って帰ってしまったが、信長は意に介さない様子だったという。

21日、信長は居城・那古野城を出陣して熱田に宿泊。
22日はものすごい強風で船乗りたちでさえ反対したのにもかかわらず、信長は無理に船を出させたという。こうして信長は緒川城近辺に到着してその日は野営し、翌23日に緒川城の水野信元に合流した。

24日、信長は出陣して辰の刻(8時)から村木砦に攻撃を開始。砦の北は要害、東は大手門、西は搦手門、南は甕型の非常に大きな堀であったが、織田軍は以下のように攻め口を分けた。

  • 東の大手門:水野忠分軍
  • 西の搦手門:織田信光軍
  • 南の大堀:織田信長軍

信長隊は砦の狭間を鉄砲隊に攻撃させ、その隙に手勢に堀を登らせて砦に攻め込んだ。約9時間にも及ぶ激戦となり、両軍に負傷者・死者は多数に上ったが今川軍の降伏で決着となった。信長の小姓にも多くの死者がでて、その惨状に信長は涙したともいう。

翌25日には信長は寺本城へ手勢を派遣して城下に放火して居城・那古野城に帰還。26日、信長は留守居役の安藤に礼を言い、翌日安藤らは美濃国へ戻った。安藤からこの戦いの一部始終を伝え聞いた道三は「すさまじき男、隣には、いや成人にて侯よ(凄まじい男だ。隣には嫌な奴がいるものだ)」と言ったという。

安食の戦い(中市場合戦)

同年7月12日(※前年の天文22年説もあり)、清洲城内に居住していた守護の斯波義統が殺害された。

義統の子・斯波義銀が屈強の従者を連れて川狩りに出かけている最中、老人が僅かながら残っているだけの手薄となった館に、守護代・織田信友と家宰・坂井大膳が急襲し、義統は自害に追い込まれた。
斯波氏の守護は形式的なものにすぎず、実権はすでに守護代・清洲織田氏に握られていたのである。

その後、子の義銀は信長を頼って逃亡し、その庇護のもとで那古野の天王坊に居を構えることになった。

こうして清洲織田氏討伐の大義名分を得た信長は同年7月18日、さっそく柴田勝家に命じて清須城へ向けて出陣させた。
勝家率いる信長勢は三王口で交戦して打ち破ると、清洲勢を乞食村(春日井郡安食村)、続いて成願寺へと後退させると、ついに城内まで追い込んだという。

この戦いでは信長が考案したという長槍の威力が存分に発揮された。織田方の槍は長く、清洲方の槍は短かったのであり、清洲方の河尻左馬丞や織田三位ら30人程を討ち取ったという(『信長公記』)。

この戦いの発端となった守護・斯波義統の自害については、信長の策謀とする見方が強く、斯波義銀を那古野城に保護した点も、実は信長が義銀を那古野城に押し込めたとする見方がある。

上総介信長

同年11月には諸史料から、信長が自らを「上総守」や「上総介」と称していることがわかる。『信長公記』によれば、これらはあくまでも自称であり、朝廷から正式に任官したものではなかったという。

清洲城を奪取

天文24年(1555年)、清須城で孤立した坂井大膳は、信長の叔父・信光に接近し、清須城に入って彦五郎信友と並んで守護代の職に就いてもらおうとした。

これは弾正忠家の力を削ぐべく、信長と信光を分離させようと謀ったものであるが、信光はすでに信長と内通して清須城乗っ取りを計画しており、乗っ取り成功時には尾張下四郡のうちの二郡をもらう約束をしていたという。

四月二十日、信光は坂井大膳がお礼に南櫓へ来たら討ち取ろうと、兵を隠して配置し、待っていた。大膳は城中まで来たが、異様な気配を察して風をくらって逃げ去り、そのまま駿河へ行って今川義元を頼り、居ついてしまった。 次に信光は、守護代織田信友を追い詰めて切腹させ、清洲の城を乗っ取り、信長に引き渡して、自分は那古野の城に移った。

こうして信光は同年4月20日に清須城へ入り、南櫓に居を定めた翌日に難なく城の乗っ取りにあっけなく成功し、にわかに身の危険を察した坂井大膳はそのまま城を出奔して駿河まで逃れ、その後は歴史から名を消すことになった。
一方で守護代の織田信友は切腹。こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城を叔父・信光に譲って移し、自らは清洲城への入城を果たすのであった(『信長公記』)。

織田信次の過ち

信光が那古野城に移ったあとの守山城には織田孫十郎信次が入っている。しかし、その信次は同年6月26日に家臣が誤って信長の弟・喜六郎秀孝を殺害してしまったため、成敗を恐れて出奔してしまったという(『信長公記』『織田家雑録』など)。

不可解な信光の死

清洲乗っ取りの約半年後の11月26日、尾張統一を目指す信長にとってあまりにも好都合な事件が起きた。

尾張下四郡のうちの二郡を与える約束をしていた叔父の織田信光が那古野城で家臣・坂井孫八郎に暗殺されてしまったというのである(『享禄以来年代記』)。
この事件は諸史料で「不慮の死」と書かれているだけで死因に触れられていない。ゆえに、この謎の死は信長の謀略による見方が強いのである。

・・・こうして信長は尾張下四郡を手に入れたのであった。


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