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家中での骨肉の争い(1555-57年)

美濃のマムシ、道三死す!

尾張国内の政情不安が続く中、隣国の美濃も混乱が生じた。

斎藤道三には嫡男義龍、二男孫四郎、三男喜平次と三人の男子があったが、二男三男を溺愛し、あろうことか二男孫四郎に家督を譲ろうとしていたのである。そして、これが原因なのか、弘治元年(1555年)11月22日には義龍が仮病をつかって見舞いに誘い出した弟らを殺害するという事件が勃発(『江濃記』)、仰天した道三は兵を集めて町全体を焼き尽くし、長良川を越えて山県郡の山中へ逃亡したのであった。

こうして、翌弘治2年(1556年)からの美濃・斎藤氏では、鷺山城に隠居していた道三と、稲葉山城に拠る義龍との父子の泥沼の争いがはじまるのである。

同年2月の合戦で道三方は死力をつくしたが敗れ、城田寺に逃がれている。一方でこのころ、信長の戦いも激化していく。

同年3月には三河の荒河に侵入して、野寺原(愛知県安城市)で今川氏の軍勢と戦っている(『観泉寺所蔵文書』)。この作戦は三河の守護・西条城主の吉良義昭の手引きによるものといわれている。

4月上旬に今川義元の斡旋により、尾張・三河の両守護が会見が実現。義元が吉良義昭を補佐し、信長は斯波義銀に随行して出馬し、三河の上野原で双方が陣を構えた。

会見の目的は、両守護の序列をどのように決めるかということであり、双方から十歩ばかりずつ、真ん中へ進み出たが、別に何事も起こらず、また元の席へ戻り、やがて双方とも陣払いをして引きあげたという 。

信長は斯波義銀を尾張の国主として敬い、義銀に清洲の城を進呈して、自身は北櫓に退いたという(『信長公記』『松平記』) 。

長良川の戦い

そして同じ4月には美濃国で長良川を挟み、ついに道三・義龍父子の最後の合戦が行なわれた。

4月19日、道三は末子に遺言状を与え美濃国を信長に譲る旨を告げている(『岡本はる氏所蔵文書』)。
そして翌4月20日、ついに道三が討死し、信長は救援に向かったものの、道三の死の報を聞いて退却となった(「美濃国諸旧記」・『信長公記』)。

これにより、織田・斎藤の同盟関係はなくなり、信長は以後、道三の美濃国譲り状を大義名分として美濃侵攻が開始することになる。 しかし、これに乗じて尾張上郡を支配する岩倉織田氏の織田信安が斎藤義龍と示し合わせて信長に敵対行動をするようになると、尾張下の郡においても再び信長に敵対する者が多く現れるようになり、信長は国内統一に手を焼くことになる。

信長の兄弟が謀反

こうした中、信長の家老である林秀貞とその弟の林通具、および、柴田勝家の3人が信長弟・信勝(信行)を支援し、逆心を抱いているといううわさが流れ始める。

5月26日には信長が弟の安房守秀俊(信時)と2人だけで信勝のいる那古野城に赴いた。

絶好の機会とばかりに林通具が信長の暗殺を企てるが、兄の林秀貞が「主君をここで殺害するのは恥知らずで天罰が恐ろしい。」として諌め、この場で信長に手をかけずに帰した。しかし、一両日過ぎて林らは信長に敵対の旗色を明らかにしたという(『信長公記』)。

さらに6月に入り、守山城主で信長弟・安房守(秀俊)が守山城の土居を普請中であったところ、家臣の角田新五郎に殺害される(『織田家雑録』)。

こうして織田家中が混乱を極める中、信長は出奔している織田信次を哀れに思い、赦免して守山城を与える(『信長公記』)。

稲生の戦い

この頃、林秀貞や柴田勝家に支持され、織田家中で評価の高かった信長の弟・信勝(信行)は、信長と不和になっていて、代々織田家当主が名乗ってきた弾正忠の官途を自称するようになっていたという。
さらに道三死後には、林秀貞や柴田勝家に支持された信勝は、信長の直轄領の篠木三郷(現:愛知県春日井市)を押領し、さらに庄内川の際に砦を築くなどしていた。

8月22日、これを察知した信長は佐久間盛重に命じて庄内川を渡った名塚に砦を築かせて守備させた。

信長支持派は森可成・佐久間盛重・佐久間信盛・丹羽長秀前田利家ら、信勝支持方は林秀貞・林林通具・柴田勝家らであり、こうして織田家中は真っ二つに割れ、兄弟対決となるのであった。

23日に信勝方が名塚の砦に向かって出陣。柴田勝家は1000人、林秀貞が700人を引率していたという(『信長公記』)。

24日、信長も700人たらずの手勢で清洲を出陣し、正午頃には稲生原(現:愛知県名古屋市西区)で信勝方と衝突することになった。
信長軍はまず柴田軍を攻めたが、佐々孫介(佐々成政の兄)ら屈強な家臣が討たれるなど劣勢となった。しかし、奮戦して信長が大声で敵に怒鳴ると、さすがに身内同士の争いということで信長の威勢の前に柴田軍の兵たちは逃げていったという。

次いで信長軍は林軍に向かい、信長自身が槍で主将の林通具を討ち取ったところで決着がついた。
このとき信長軍が討ち取った敵方の首は、鎌田助丞・富野左京進・山口又次郎・橋本十蔵・角田新五・大脇虎蔵・神戸平四郎らをはじめ、450人余りであったという。

その後、信勝は敗走して末盛城、那古野城の両城に篭城を余儀なくされ、一方で信長は両城の城下を焼き払ったが、25日には信長の母・土田御前の嘆願によって信勝は赦免となった。
また、信勝を支持した林秀貞・柴田勝家・津々木蔵人は信長に謝罪して許され、忠誠を誓うことになったのである。

しかし、今度は信長の腹違いの兄・信広も謀反を決意し、美濃の斎藤義龍と盟約を結んで清洲城襲撃を企てた。信長はこれを事前に察知し、投降してきた信広を許している。

再び不穏な動きをした弟・信勝を謀殺

これでお家騒動は終結したかにみえたが、どうやら信勝は織田家の家督継承の望みを捨て切れなかったようである。

弘治3年(1557年)、信勝は岩倉城の織田信安と共謀して信長の直轄領を奪おうと企んでいた。これを知って無念に思った柴田勝家は、今度は信長への忠節を守り、この企みを信長に告げた。
これを知った信長はやむを得ずに仮病をつかって弟信勝を誘い出し、同年11月2日、清洲城に見舞いにやってきた信勝をついに殺害したのであった(『信長公記』『織田家雑録』ほか)。


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