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前田利家の家紋・家系図

家紋

利家は秀吉から五七桐や十六葉菊の紋を賜っていたが、ほぼ使用せず、前田家の定紋である梅鉢紋だけを使用したという。

前田利家の家紋(梅鉢)
梅鉢(うめばち)

利家が主に使用した前田家の定紋。利家の肖像画にも残っている。

前田利家の家紋(加賀梅鉢)
加賀梅鉢(かがうめばち)

前田宗家の独占紋。梅鉢とほぼ同じに見えるが、軸の部分が若干異なる。


家系図

前田利家の父母

父は前田利昌。

母は竹野氏の長齢院(ちょうれいいん)。実の姉が"まつ"の母でもあるため、利家と"まつ"は従兄弟にあたる。

前田利家の兄弟

利家は前田利春の四男であり、兄3人、弟2人の他、妹2人がいるという。

利久(長兄、としひさ)
前田家当主であったが、実子がいなかったために前田慶次(利益)を養子にしている。しかし、主君・織田信長の命で前田家の家督を弟・利家に譲ることとなった。利家と不和になるが、のちに和解して利家に仕えた。
利玄(次兄)
詳細不明
安勝(三兄、やすかつ)
織田政権で七尾城代となり、前田家の家督を継いだ利家からの信頼も厚かった。信長死後は能登小丸山城主となっている。
良之(弟、よしゆき)
佐脇家の養子になり、佐脇良之と称した。織田信長に小姓として仕えたが、のちに信長の勘気に触れて、家康のもとへ出仕している。三方ヶ原の戦い(1572年)で討死した。
秀継(弟、ひでつぐ)
兄の利家に仕え、佐々成政との戦い等で武功を挙げたが、最期は天正地震(1586年)で城が全壊して圧死した。

前田利家の妻子

正室は芳春院(ほうしゅんいん)で名は "まつ"。
側室には寿福院(じゅふくいん)、隆興院、金晴院、明運院、逞正院などがいる。

まつ(正室)

利家との間に2男9女を産んだ。利家の死後、家康から前田家謀反の嫌疑をかけられた際、交戦を回避するために自ら家康の人質となり、14年間を江戸で過ごした。

  • 利長(嫡男、としなが)
    利家の嫡男で加賀藩初代藩主。利家死後に家康と対立するも、結局は母・まつを人質として差し出し、開戦を免れた。関ヶ原では家康方について功をあげ、戦後に加賀藩を成立させた。
  • 利政(二男、としまさ)
    利家存命中は能登国七尾城の城主を務めた。関ヶ原では西軍に属して加賀の所領は兄・利長に渡された。大阪の陣(1614-15年)では両陣営から誘いを受けたが中立を決め込んでいる。
  • 幸姫(長女、こうひめ)
    前田長種に嫁いだ。
  • 蕭姫(二女、しょうひめ)
    中川光重に嫁いだ。
  • 摩阿姫(三女、まあひめ)
    秀吉の側室。後に万里小路充房に嫁いだ。
  • 豪姫(四女、ごうひめ)
    秀吉の養女。宇喜多秀家の正室に嫁がれた。
  • 与免(五女)
    浅野幸長と婚約していたが、夭折した。
  • 千世姫(六女、ちよひめ)
    春香院(しゅんこういん)。細川忠隆に嫁ぎ、のち村井長次に嫁いだ。
寿福院(継室)

利家の四男・利常の母。

  • 利常(四男、としつね)
    加賀藩第2代藩主。跡継ぎのいない兄・利長の養子となり、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えた。
金晴院(側室)

利家の三男・知好の母。

  • 知好(三男、としよし)
    幼年に利家の命で出家し、のちに還俗し、従兄の前田利好の死去にともなって小丸山城主および七尾城代となった。大坂の陣(1614-15年)にも徳川方として参戦している。
明運院(側室)

利家の五男・利孝の母。

  • 利孝(五男、としたか)
    上野七日市藩の初代藩主。父・利家死後の幼年期に母・まつと共に家康の人質として江戸で過ごした。大坂の陣では徳川方として武功を挙げている。
逞正院(側室)

利家の六男・利貞の母。

  • 利貞(六男、としたか)
    幼年期は利家の近習・神谷守孝に養育され、神谷氏を称した。のちに前田姓に改め、大坂の陣に徳川方として従軍し、後方支援を行なうなどしている。

墓所・史跡

野田山墓地

石川県金沢市の市街地からほど近い野田山にある一大霊園地。

この野田山墓地の一角に加賀藩主前田家墓所がある。利家が兄・利久が野田山の山頂近くに埋葬したのが始まりといい、加賀藩の祖となった利家もこの地に埋葬され、以後、歴代藩主とその正室のほんんどがここに葬られた。

  • 所在地:石川県金沢市野田町野田山

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