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織田信長の名言・逸話まとめ

織田信長は天下統一過程で非業の死を遂げたものの、その生涯はすさまじく、多くの逸話や名言を生みだしている。
以下で早速みてみよう。

吉法師時代

将来の名将!?

吉法師(信長)が修行にいっていた清洲の寺には4~50人の兄弟弟子の子供らがおり、吉法師は5月5日にいつも母から筆墨紙等の類に、飯米3斗(約45キロ)、永楽銭一貫ずつを送られていた。
印陳打(いんじうち、石を投げ合って勝負を争う遊び)を好み、兄弟弟子の子供たちに競わせ、活躍した子には母からもらった永楽銭などの品々を手元に一銭も残さず、すべて分け与えてしまった。心ある者はこうした吉法師をみて「この子は将来名将になるであろう」と言って感心したという。(『名将言行録』)

「主君が子供ならあなどるのか?」

吉法師(信長)が庭先で遊んでいると小蛇が出た。吉法師がこれをつかんで近臣の者に「このようなことを勇というのか?」と尋ねると、近臣は「小蛇など恐れるに足らぬものです」と答えた。すると吉法師は「蛇の毒は大小によらぬ。小さいからと恐れぬのなら、もし主が幼少なら、うぬらはその主をあなどるのか?」と言い返し、近臣たちはとても赤面したという。(『名将言行録』)

大うつけ時代

青年信長の日常(信長16~18歳)

16~18歳ごろの信長の日常は特定の遊びにふけることもなく、朝夕馬をのりまわし、3~9月までは川で水泳をしていて、泳ぎは達者であった。また、弓・鉄砲・兵法の稽古におこたりなく、鷹狩りを好んでいたという。
また、家来たちの竹槍の訓練試合をみて、槍が短いより長い方がよいことに気づき、柄の長さを長くして揃えさせたという。

この頃の信長の服装は浴衣帷子の袖をはずしたものに半袴を着て、火打ち袋などをたくさん釣る下げ、朱鞘の太刀を差し、従者にも朱武者づくりの服装をさせていた。また、髪型は茶筅髷で、紅色の糸などで巻き立てて結んでいたという。
一方、信長の振る舞いは、町で人目を気にすることもなく、柿や瓜をかぶり食い、立ち食い、さらに、人に寄りかかっては肩につかまって歩く等の行儀の悪さであった。
こうしたことから人々は信長のことを「大うつけ」と呼んだという。(『信長公記』)

父の葬儀で抹香を投げつける(信長19歳)

信長が19歳になった天文21年(1552年)には父・信秀が病没しているが、その葬儀での有名なエピソードがある。
父の葬儀の際、信長は不適切な身なりで、仏前に進んだ際に抹香をわしづかみにして仏前めがけて投げつけたという。一方で弟の信勝は折り目もしっかりした肩衣に袴を着る正装姿であり、礼にかなった作法であった。
信長のことを皆「あの大馬鹿者が」と口々にしたが、ある旅僧1人だけが「あの方こそ国持ち大名になるお人だ」と言ったという。(『信長公記』)

この信長の行動の理由は、以下のようにいくつかの見解があるが、いずれも定かではない。

  • 家中や他国勢力に、自分が後継者であることをアピールするために行なった。
  • 神や仏に対して信仰心がないこと(否定すること)を、葬儀の場で示した。
  • 信秀の死による家中の混乱の中、反乱分子をあぶりだすため、"うつけ"ぶりを演じた。
  • 父の死を悲しみ、単に惜しむ気持ちが高ぶった。

斎藤道三との会見(信長20歳)

信長と濃姫の結婚ののち、美濃の斎藤道三が "大うつけ" と噂される信長の器を確かめるために会見を希望した。会見の場で道三は、信長を驚かせてやろうとしたが、逆に信長に驚かされて度肝をぬかれたという。(『信長公記』)

運の強い男(信長25歳)

「あまが池」に恐ろしい大蛇がいるという言い伝えがあり、弘治4年(1558年)正月に信長は大蛇退治にでかけることになった。

一方でこのころ、佐々成政に逆心のうわさがあったが、成政は仮病を使って大蛇退治にお供しなかった。

成政の居城・比良城は「あまが池」の近くにあったため、成政は信長が城へ立ち寄ってきて切腹を言い渡されることを心配していた。
そして、信長が来たら討ち取るつもりでいたという。しかし、運が強い信長はまっすくに居城の清洲へ帰ったという。(『信長公記』)

尾張国統一戦~桶狭間まで

信長の大志

あるとき、丹波の長谷川城主・内藤備前守の与力である赤沢加賀守が信長に面会し、熊鷹2羽のうちのいずれか1羽を献上すると申し出た。すると信長は「お心はありがたいが、いずれ(自分が)天下を取るであろうから、それまでそのほうに預けておく。大事に飼ってくれ」と言ったという。
赤沢加賀守は帰って皆にこのことを伝えたところ、「国を隔てた遠国からの望みで実現しまい」と大笑いしたという。
しかし、それから信長が足利義昭を奉じて上洛するのに10年もかからなかった(『信長公記』)。

人間50年

人間五十年 下天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。(『信長公記』ほか)

「人間界の50年は、欲界の六天の内の最も下層な四天王、つまり下天の一日一夜にしかあたらない夢幻のようなもの。一度生を得て滅びない者があるだろうか。」という意味。
これは「敦盛」(=幸若舞の演目のひとつ)の一節である。信長は「敦盛」を好んで舞ったといい、特に桶狭間の戦いでの出撃の直前に舞ったという話が有名。

「人は誰でも死ぬ」

死のうは一定。しのび草には何をしよぞ。一定語りおこすよの。(『信長公記』ほか)

「誰でも死は訪れる。死後にも(自分が)語り継がれる為に何をしておこうか。きっとそれを頼りに人々は語り継いでくれるだろう。 」といった意味。これは信長の好きな小歌として有名。

義元左文字を接収する(信長27歳)

永禄3年(1560年)に桶狭間合戦で今川義元を討ち取った信長は、その後、清洲から熱田へ通じる街道に”義元塚”というのを築かせ、供養のために大きな卒塔婆(=仏塔)を立てたという。そして信長は戦利品として義元が所持していた秘蔵の名刀「義元左文字」を取り上げて、何度も試し切りをして常に差すことにしたという。(『信長公記』)

美濃統一戦~室町幕府滅亡

小牧山移転の策(信長30歳)

清洲は尾張の国の真ん中で富裕な土地柄であった。

ある時、信長は家臣らを連れて二の宮山に上り、ここに築城して移転しようとの命をだしたが、家臣らはひどく迷惑がった。 しかし、今度は小牧山にすると言い出し、家臣らは皆喜んで移転したのであった。

小牧山は清洲から引越しに便利な土地だったが、最初からそれを言い出したら、二の宮山と同じように皆迷惑がっただろう、との信長の考えだったのである。(『信長公記』)
ちなみに小牧山への移転は永禄6年(1563年)のことである。

徹底した気遣いが功を奏す(信長34歳)

永禄10年(1567年)、信長は甲斐の武田信玄との同盟関係の補強として、嫡男・信忠と信玄の娘との縁談を申し出た。
信長は以前から縁談のために何度も使者を派遣し、また、贈り物にも念を入れていたため、信玄から感心されて縁談を受け入れられたという。(『名将言行録』)

信長の下馬

信長が関東に下るとき、家康の居城・岡崎城で下馬した。
このとき留守を預かる徳川の者らが恐縮したが、信長は "徳川の者へ礼を尽くすためではなく、名城の前では下馬するものなのだ" という旨のことを言ったという。(『名将言行録』)

「勝負は時の運だ」

およそ勝負というものは時の運によるのであるから、前もっては計れないことである。功名は武士の本意であるといいながら、それも内容次第のことだ。(『名将言行録』)

これは長島一向一揆討伐の際、蒲生氏郷が大剛の敵の首を取って実検にもってきたとき、信長が嘲笑った冒頭の言葉。
信長は続けて「いまの汝の功名は軽率な挙動だ。ひとかどの武を志す程の者ならば、けっしてこのような功名を望んではならぬ。身の危険を顧みないのはそれ程の功とはいえぬ。今後はこのことを忘れるな。」と言って蒲生氏郷を戒めている。

おねへの手紙

みもちをようかいになし、いかにも、かみさまなりに、おもおもしく、りんきなどに、たちいり候ては、しかるべからず候。

「立ち居振る舞いを明朗にし、いかにも奥方らしく、重々しく構え、やきもちなど焼いてはいけない。」という意味。これは信長が秀吉の妻・おねに夫婦間のいざこざについて手紙で意見したもの。時期の詳細は不明。

「才能で家臣を選ぶべき!」

人を用ふるの者は能否を択ぶべし、何ぞ新故を論ぜん。

「人を用いる者は、才能の有無で選ぶべきだ。奉公年数の長さで論ずべきではない。」という意味。これは信長が常々言っていたことだという。

猛スピードの離れ業(信長36歳)

上洛した翌永禄12年(1569年)、信長の留守中に将軍義昭の仮御所が三好軍に襲撃された際(本圀寺の変)、その報告を受けた信長は岐阜から3日かかるところを2日で京都に駆けつけ、信長と同時に駆けつけたお供は10騎もなかったという。(『信長公記』)
同年まもなくして、信長は新しい御所の普請に取り掛かっているが、キリスト教の宣教師ルイス・フロイスは「通常2~3年はかかりそうなものを、(信長は)ほぼ70日間で完成した」と驚いている。(『フロイス日本史』)

浅井長政離反の報告に耳を疑う(信長37歳)

元亀元年(1570年)の越前出兵(金ヶ崎の戦い)で、義弟の浅井長政が背いたとの情報が入ったとき、信長ははじめ信じなかったという。しかし、次々に同様の報告が入ったため、即座に退却を決意して金ヶ崎城に秀吉ら殿軍を置き、退却したという。(『信長公記』)
信長がかろうじて京都に戻ったときの従者は、わずか10人ほどだったという(『継介記』)。

比叡山焼討ちの惨状(信長38歳)

信長が比叡山を焼き討ちにした際、山は焼けて跡形もなくなるほど無惨なものだった。 僧・俗・児童・学僧・上人など、数知れぬほど捕らえて一人残らず首を切り、数千の死体がごろごろところがって目も当てられぬ有様だったという。

佐久間信盛に激昂(信長40歳)

信長は、天正元年(1573年)朝倉義景を滅ぼした一乗谷城の戦いの際、朝倉を逃がさないように何度も家臣らに厳命した。 朝倉軍が撤退をはじめると、信長は自ら先駆けて追撃したが、再三厳命を受けていた先陣の家臣らは信長よりも遅れて駆けつけたため、信長から叱責された。
家臣らは謹んであやまったが、その中で佐久間信盛は涙を流しながらも「そうはおっしゃいましても、我々ほどの家臣はお持ちにはなられますまい」と言い返し、信長はそのうぬぼれに激怒して機嫌が悪かったという。(『信長公記』)

迫撃中での冷静な判断力(信長40歳)

同じく一乗谷城の戦いで朝倉軍の追撃の際、朝倉軍の退路が右の道と左の道の2つに分かれていたが、信長は家臣たちに躊躇なく左の道を進むように命じたという。
左の道の先には朝倉軍の拠点となる城があったため、信長はそう命じたのであり、刀根坂で朝倉軍を壊滅に追い込んだのである。そして後になってわかったことであるが、右の道に逃れた朝倉軍の兵士たちは雑兵ばかりであったという。

勢力拡大~本能寺の変まで

朝倉・浅井の首を酒のつまみに(信長41歳)

浅井・朝倉を滅ぼした翌天正2年(1574年)の正月、岐阜の信長のもとへ挨拶にきた他国の諸将らをもてなすため、酒宴が開かれた。 そして彼らが退出後、信長は今度は馬廻り衆と酒宴を行なったが、このときの肴(=飾りとして膳に置かれたもの)は浅井久政、浅井長政、朝倉義景の3人の首(頭蓋骨)に金箔と漆を塗ったものだったという(『信長公記』)。

信長の腹の内(42歳)

天正3年(1575年)の長篠の戦いのとき、信長は牛久保から新城まで三里の道を三日もかけて進んだ。織田家中の上下の者らは「これは武田を恐れてのこと」として悉く非難した。しかし、信長の腹の内は武田に弱みをみせ、思い上がらせておくという策であった。
そして、なにも知らない武田勝頼は信長を侮り、無謀な戦を仕掛けて大敗したのであった(『名将言行録』)。

多田久蔵の死を惜しむ(信長42歳)

信長は長篠の戦いで多田三八郎の子の久蔵を生け捕りにした際、家臣になるように言った。その多田三八郎なる者は29回もの戦功と27の傷をもち、武田信玄に仕えた名高い猛将であったのである。

ところが久蔵は縄をほどかれたとたん、長柄を取って信長の若い家臣を数人突き刺して殺したため、たちまち取り押さえられて首を取られてしまった。信長は勇将の久蔵の死を深く惜しんだという。(『名将言行録』)。

「わしをリスペクトしろ!」(信長42歳)

とにもかくにも、我々を崇敬して、影後にても、あだに思ふべからず。我々ある方へは足をもささざるやうに、心もち簡要に候。(『信長公記』)

「とにかくこの信長を崇敬し、影でもあだおろそかに思ってはならぬ。信長のいたほうへ足も向けないほどの心がけが重要だ。」という意味。これは越前国掟書の一節で、天正3年(1575年)に信長が重臣・柴田勝家に越前国を与え、そのときに忠節を誓わせたもの。

「そんなこと器用とは言わぬ!」

器用というのは他人の思惑の逆をする者だ。(『信長公記』)

あるとき、信長が子息・信忠の人柄を家臣に訪ねたとき「信忠は器用な方」との返答を受けた。その理由を重ねて聞いたときに失望して言い放った言葉。

出火のお弓衆を叱責(信長45歳)

天正6年(1578年)、お弓衆の邸宅から出火して火事が起きた。
信長は ”妻子を安土に移していない者がいるからだ” と考え、すぐに名簿を作らせて妻子の同居実態を調査させた。

すると、お弓衆60人とお馬廻衆60人合わせて120人もの該当者がおり、信長はこれらの者を叱責し、子の信忠に命じて尾張国の彼らの邸宅を焼き払い、宅地内の竹木までも伐採させた。
彼らの妻たちは取るものも取りあえず安土へ引き移った。信長は罰として、彼ら120人に安土城下に新道を築かせ、完成したところで全員を許したという。(『信長公記』)

佐久間父子を折檻(信長47歳)

信長代になり、三十年奉公を遂げたるの内に、佐久間右衛門、比類なき働きと申し鳴らし候儀、一度もこれあるまじき事。(『信長公記』)

「この信長の代になって30年間も奉公をした間、汝、佐久間右衛門(=佐久間信盛)が比類のない働きを示したことはまだ一度もない。」という意味。これは天正8年(1580年)に信長が家臣・佐久間信盛父子に突きつけた折檻状の一節に見える言葉であり、しばらく功績のなかった佐久間信盛父子を叱責したもの。

竹生島参詣事件(信長48歳)

信長の留守中、女房衆らはこれ幸いとばかりに羽根を伸ばして外出していったが、想像以上に信長が早く戻ってきたために事が発覚し、成敗されたという。(『信長公記』)

安土城に不吉な兆候(信長49歳)

天正10年(1582年)の2月14日の夜、東方から空がとても明るくなり、安土城の上空が恐ろしいばかりにも赤く染まり、朝方までそれが続き、豊後国(=大分県)でも同じような兆候が見られたという。そしてフロイスら宣教師たちは、信長がこの異変になんら意に介さずに武田征伐に出陣するのに接し、驚愕したという。
さらに、同年4月22日の夜には一つの彗星が現れ、非常に長い尾を引いて数日間続いたといい、数日後の正午には、数名の修道士たちが彗星とも花火とも思えるような物体が安土に落下するのをみて、驚愕したという。(『フロイス日本史』)

「(光秀か…)それはしょうがない。」(信長49歳)

是非に及ばず。(『信長公記』)

「しかたがない」、「やむをえぬ」 といった意。これは本能寺の変の際、信長が誰の謀反なのかを問いただし、森蘭丸から「明智の軍勢と見受けます」との返答を聞いたときに放った一言。

その他の名言・逸話(時期は不明)

城を頼るな

人城を頼らば城人を捨せん(『織田信長譜』)

「人が城を頼ったとき、落城する」といった意味。信長が言いたいことは、城が人を守るのではなく、人が城を守るのだということ。つまりは籠城戦において勝利するのは守る人の力次第だということである。


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