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「一乗谷城の戦い」越前朝倉氏の滅亡
──天正元年8月(1573年)

背景

そもそも朝倉氏との戦いのはじまりは、織田信長が上洛して15代将軍義昭を擁立したことにあった。
将軍の後見人となって義昭を傀儡化しつつあった信長は、諸大名らに上洛要請をするが、朝倉義景がこれに従わなかったため、永禄13年4月(1570年)に信長は越前遠征を実施。だが、浅井と朝倉はかねてから親交があったのもあり、この遠征中に義弟の浅井長政が突如裏切ったため、以後、信長は浅井・朝倉連合とたびたび戦うことになったのだ。
その後、将軍義昭は信長を葬るべく、浅井・朝倉に加え、本願寺や武田信玄などの諸大名を結集させて信長包囲網を構築。 信長は窮地に陥ったが、天正元年4月(1573年)に最大の難敵・武田信玄が病に倒れ、7月には義昭を追放するなど、包囲網を打開しつつあったのである。

合戦の経過

朝倉、浅井の救援に向かう

運を味方につけた信長は、8月8日、3万もの大軍を率いて岐阜を出発、琵琶湖のある近江国へと攻め入った。当時、近江は浅井長政が支配していたが、兵数で劣る長政は太刀打ちできずに小谷城へ籠城。浅井と同盟関係にあった朝倉義景は、家中の反対押し切って約2万の兵で浅井長政の救援に動いた。だが、浅井家臣の一人が信長と内通していたことから寝返り、さらに重臣・魚住景固らも、兵が疲れているため休ませた方がいいとして出兵を拒否するなど、信長にとって事が優位に進むようになる。

その後、朝倉方は小谷城を後詰めするため、同城の背後に砦を構築。一方で織田方も小谷城の周囲に砦を構築して包囲しようとした。
8月12日、この日は暴風雨が発生。朝倉方の前線部隊はこの日の合戦はないと踏んでいたが、その油断を見抜いていた信長は手勢を引き連れて奇襲をかけ、そのまま朝倉兵が降伏させた。ここで信長は義景本陣をたたくために一計を案じ、あえて降伏してきた朝倉兵を敵陣に返すことを試みた。信長は前線基地を陥落したことで、朝倉軍が撤退するとみていたようであり、家臣らには追撃の際に絶対に逃さないように下知している。

撤退戦で朝倉壊滅「刀根坂の戦い」

そして13日には、信長の思惑通り、勝算がないと判断した義景は撤退を決断。朝倉軍の撤退を知ると、織田方は一斉に追撃をはじめるが、家臣らは信長に事前に言われていたにもかかわらず、信長より遅れて参上したため、信長の怒りを買った。 このとき、佐久間信盛が反論して信長を激昂させたというエピソードは有名だ。
信長は翌14日まで徹底的に追撃戦を行ない、義景本隊は刀根坂で追撃されて大損害を被ったとみられる。

もともと浅井の援軍だったことや織田方からの内部工作などで、朝倉軍の士気は低く、軍の統率もとれなかったようだ。 こうして朝倉軍はほぼ壊滅状態となり、15日、義景はかろうじて一乗谷城に退却した。
この時、義景の手勢はわずか500ほどになっていたといい、同族の朝倉景鏡が越前北部の大野郡に向かって陣形を整えた方がよいと進言したという。この進言は、当時朝倉氏と同盟関係にあった平泉寺を頼る手筈であったが、これはワナだったようである。平泉寺の僧兵も朝倉景鏡もすでに織田方に内通していたのだ。この根回しをしたのが、木下藤吉郎(のちの羽柴秀吉)という。

義景の最期

一方、信長は兵に休息をとらせて大軍を整えた後、17日より再び進軍を開始し、翌18日には一乗谷の市街地を焼き払っているが、最後まで朝倉氏に忠義を示した数百名が抵抗したといわれる。そして20日、大野郡に向かっていた義景一行は、裏切った景鏡の手勢に囲まれ、最期は自害して果てたのである。


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