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「手取川の戦い」謙信にとって信長軍は弱かった!?
──天正5年9月(1577年)

上杉軍と織田軍が唯一交戦した戦いと言われる「手取川の戦い」。信長は参戦せずに、北陸方面軍団の司令官・柴田勝家が謙信軍と戦ったというが、はたしてその結果は?

合戦マップ

時期天正5年(1577年)9月
勢力織田信長 vs 上杉謙信
場所加賀国の手取川一帯(現在の石川県白山市湊町付近)

合戦の背景

事の発端は天正4年(1576年)に上杉謙信が能登国の治安回復を大義名分として七尾城を攻めたことに始まる。

謙信は15代将軍足利義昭が結集した反織田勢力の一角に加わると、上洛に向けて越中を平定。続けて能登国の要衝・七尾城の攻略に動いたのであった。一方、この頃の織田信長はすでに畿内を掌握して織田政権を樹立。圧倒的な勢力圏を持っており、北陸方面への勢力拡大は柴田勝家を司令官として一任していた。

七尾城は能登畠山氏の本拠であり、この頃の当主は幼年の畠山春王丸で実権は重臣の長続連が握っていた。彼は勢力を北陸方面に拡大してきた信長と親密な関係を作っていたようだ。いわゆる親信長派というべき将である。同年中に七尾城は陥落しなかったものの、上杉軍が周囲の支城群を攻撃・落城させたことで、七尾城は孤立することになる。(第一次七尾城の戦い

その後、一旦は帰国した謙信だったが、翌天正5年(1577年)に再び七尾城を包囲。 これに長続連が織田方に援軍を要請し、8月には柴田勝家率いる北陸方面軍が援軍に向かっていた。しかし、その到着前の9月15日に七尾城は陥落することになった。(第二次七尾城の戦い)

その2日後の17日、上杉軍は南下して能登末森城をも陥落させると、織田軍との戦いに向けてさらに南下してきたのである。 なお、羽柴秀吉もこの援軍に加わっていたが、勝家と喧嘩して勝手に引き揚げてしまったため、信長に激怒されたらしい。

合戦の経過・結果

勝家ら織田方の援軍は、18日には加賀国湊川まで進出していたが、七尾城の陥落や上杉軍の接近を全く認識していなかったようだ。そして23日にようやく情勢を把握すると、湊川を渡って撤退しようとしたが、この撤退中に上杉軍に襲撃されたのである。

実のところ、この合戦の内容に関しては史料にとぼしく、信頼性の高いものは謙信の書状だけらしい。それによると、上杉軍は千人余りの織田兵を討ち、残る織田兵は手取川に逃れたが、洪水続きのために川を渡れず、馬もろとも押し流される者が相次いだという。

結果的に織田方の大敗となったワケだが、織田方からの史料が一切残っていないのもあり、本当に上記のような合戦内容だったのかは疑問が残る。だが、合戦の規模・勝敗・内容はともかく、この手取川周辺で両軍が衝突したことは確かなようであり、「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長」という落首が残されていることからも伺える。

なお、謙信はこの戦いで信長が出陣していると思っていたらしく、必死に信長を探していたともいわれ、織田方を撃退した後には「織田軍は案外弱い。この分なら都まで容易に進めよう」といった旨のことまで言ったという。

その後、謙信は平定した能登国での守備を整えるなどの政務を行ない、冬の到来のために越後へ戻った。 なお、年明けの春には病で亡くなり、謙信の上洛は幻に終わるのであった。。


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