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信長の性格・思想を徹底検証!

信長といえばどのような性格をイメージするだろうか?

世間一般に浸透しているのは「短気」「せっかち」「プライドが高い」「厳格」「残虐」「執念深い」といったところであろうか。 史料から読み解く限り、これらのイメージはあまり間違っていないと思われるが、その一方で意外な一面もいくつかあったようだ。

戦国時代の日本にキリスト教の布教活動をしたイエズス会宣教師・ルイスフロイスは、その著書『日本史』で信長に関する多くのことに触れている。『日本史』は、フロイスが感じた生の信長像が記されている貴重な一次史料であるので、この記事ではこれを中心として信長の性格や考え方を徹底検証していくこととする。

まずは『日本史』に記されていて、信長のことを端的に記したものを以下に列挙したのでみてほしい。

  1. 睡眠時間は短く、早朝に起床した。
  2. 酒は飲まず、食事は控えめにした。
  3. 自邸において極めて清潔だった。
  4. 極度に戦を好み、軍事的鍛錬にいそしみ、名誉に富み、正義において厳格だった。
  5. とても性急で激昂はするが、平素はそうでもなかった。
  6. 自分のあらゆる事にとても丹念に仕上げた。
  7. 貪欲ではなく、決断を秘めていて戦術には極めて老練だった。
  8. 対談で長引くことやだらだらした前置きを嫌った。
  9. 戦運が悪くても心持ちが広く、忍耐強かった。
  10. 困難な企てに着手するときは極めて大胆不敵だった。
  11. 人の扱いには極めて率直であり、自らの見解には尊大だった。
  12. 自分への侮辱は許さず、懲罰せずにはいられなかった。
  13. 家臣の忠告にはほぼ、あるいは全く従わず、一同から畏敬されていた。
  14. いくつかの事では人情味と慈愛を示した。
  15. 身分の低い家来とも親しく話をした。
  16. 神や仏のすべて礼拝や尊崇、占いや迷信的慣習を軽蔑した。
  17. 将軍や大名など、日本のすべての王候(=土地や人民を支配する有力者)を軽蔑した。
  18. 王候に対してさえも尊大(=つまりは上から目線)だった。

フロイスは上記のように信長という人間性を感じとっているワケであり、我々が思う信長像とほぼ一致するようにも思えるが、どうであろうか。意外な側面としては "人情味"や"慈愛"といった部分があてはまるように思われる。

次にもう少し具体的に信長の人間像がイメージできるよう、信長の事績やエピソードをみながら、じっくりと検証してみよう。

尊大、厳格、短気、せっかち・・

絶対君主だった信長

以下はフロイスが岐阜城で信長とはじめて面会したときの様子だが、これが非常に興味深い内容だ。

  • 信長が手でちょっと合図をするだけでも、家臣らはきわめて凶暴な獅子の前から逃れるように、重なりあうようにしてただちに消え去ったといい、そして信長が内から誰か1人を呼んだだけでも、外で100名がきわめて抑揚のある声で返事をした。
  • 信長の報告を伝達するものは、それが徒歩であろうと馬であろうと、飛ぶか火花が散るように行かねばならない、と言っても差し支えがない。
  • 家中や被官たちは、信長の顔を見て話す者はおらず、話をするものは顔を地につけて対応した。

こうしたフロイスの報告をみると、信長は家臣に恐れられる存在であり、その命令は絶対的で即対応しなければならなかったことがわかる。ただ、実際には味方だけではなく、敵からも当然のごとく恐れられる存在であった。

天正元年(1573年)の一乗谷城の戦いでは、家臣らに朝倉軍を逃がさぬように何度も厳命したが、朝倉軍の撤退時に、先陣の家臣たちは信長より遅れて追撃したため、信長は叱責している。
このとき佐久間信盛が「そうは言っても我らほどの家臣はいないでしょう?」という旨の発言をし、これに信長が激怒したという話も伝わっている。

天正3年(1575年)には重臣の柴田勝家に越前国を与えているが、このときに信長は「自分を尊敬し、自分に足を向けない心構えでいろ!」といった内容のことまで言っている。(『信長公記』)

まさに信長のプライドの高さと厳格で尊大なところが非常によく表れていて、同時に「せっかちで短気」といった側面も容易に想像できるであろう。

念の入れよう

信長は甲斐の武田信玄と同盟を結んだが、その関係を強化するため、嫡男信忠と信玄6女の松姫との縁談を申し出ており、永禄10年(1567年)に婚姻を成立させている。

この縁談のために、信長は丹念にも武田家にたびたび使者を送り、贈り物も念入りにして信玄の感心を引いたことで、縁談が整ったという。(『名将言行録』)

無駄な時間は使わない

信長は永禄11年(1568年)に上洛を果たすと、翌永禄12年(1569年)正月から4月にかけて在京し、将軍義昭の邸宅(室町第)の普請工事を現場で陣頭指揮していた。
公卿の山科言継が後奈良帝の法要の資金援助を頼むために信長を訪ねたが、このとき山の麓で信長に会い、わずかな立ち話で終わったという。(『兼見卿記』『言継卿記』)

以後も信長はたびたび上洛するが、そのたびに公家衆が大挙して山科や北白川口へ出迎えていたようだ。しかし、信長は公家たちに会わずにそそくさと宿館に入っていたようである。
また、フロイス『日本史』には、「なんらか用事のあるものは信長が城から出てくるのを途中で待ち受けた」といった記述もある。

信長は無駄話で時間を費やすことを嫌い、用件のみを手短に話して早急に意思決定を行なうといった、徹底的な合理主義者だったことが伺える。

家臣の忠告は聞かず

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは圧倒的な兵力差で不利なことから、家中から決戦を避けるように進言されたが、これを退けて決戦に挑んでおり、決戦前に軍議を開いて戦略などを重臣らに話すようなことは一切なかったという。

まさに、家臣の忠告には従わず、戦略において自らの決断を秘めていたのである。

怠慢は許さない

天正6年(1578年)に尾張国のお弓衆の邸宅から出火して火事が起きたとき、妻子を近江国の安土城に移転させていないからと考えた信長は、該当する者たちの邸宅を焼き払い、さらに罰として安土城下に新道を築くための工事作業に従事させたという。(『信長公記』)

天正8年(1580年)には、功績をしばらくあげなかった宿老の佐久間信盛・信栄父子、さらには理由は定かでないが、宿老の林通勝・安藤守就父子・丹羽氏勝らを追放している。

また、天正9年(1581年)には、自分の留守中に安土城を出て羽根をのばしていた女房衆に対して怒り、これを怠慢だとして処罰している。(『信長公記』)

神も仏も信じないという思想

フロイスは、信長が神や仏に対して異常な程の憎悪を抱いていたのは、信長の生涯をみれば一目瞭然だと言っている。以下、そうした信長の思想を示す出来事をみてみよう。

父の信秀が瀕死のとき、信長は仏の僧侶に祈祷を願い、僧侶たちは信秀の病気が回復すると保証したが、信秀は数日後に亡くなった。これに信長は僧侶たちを監禁し、彼らのうちの数人を射殺したという。(『日本史』)

信秀の没年は天文21年(1551年)とか天文22年(1552年)といわれているので、信長の年齢は19 or 20歳といったところだが、信長がこの出来事をきっかけにして神や仏を信じなくなったのか、それとも元々軽視していたのかは、よくわからない。

信長が上洛して将軍義昭を誕生させた翌年の永禄12年(1569年)には、御所として二条城を築城したが、このとき信長は、建築用の石が不足していたため、多数の石像を倒して工事現場まで運ばせたという。
そして、京の民たちはこれらの石像に畏敬の念を抱いていたため、恐れおののいたという。(『日本史』)

元亀2年(1571年)には、比叡山焼き討ちを行なっている。比叡山延暦寺は日本仏教の聖地であり、それが焼き討ちされたというのは、まさに神や仏の類を一切あがめない信長ならではの出来事であった。

また、天正元年(1573年)には百済寺を焼き討ちしている。
これは百済寺が信長と敵対関係にある近江の六角氏や一向一揆に加担しているとのことを聞き及んでの行動だといい、寺はことごとく灰となって目も当てられない有様だったという。 (『信長公記』)
しかも、その百済寺は聖徳太子が開基とされ、信長に焼き討ちされるまで700年もの歴史があったという。

このほか、天正7年(1579年)に信長の命で行なわれた法華宗と浄土宗の宗論では、これに乗じて挑戦的な姿勢をとる法華宗を弾圧したという。 (『信長公記』)

自らの神格化を望む

やがて順調に勢力を拡大して天下統一が目前にせまってくると、信長の傲慢さと尊大さはエスカレートし、神的な存在として自分を礼拝するように言い出したという。こうした傾向は天正10年(1582年)に甲州征伐で武田氏を滅ぼしたあと、より一層増長したという。(『日本史』)

以下はそうした信長の様子をフロイスが述べたものだ。

  • 信長は「自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しない」 と言った。
  • 自分自身が単なる人間ではなく、あたかも神的生命を得て、不滅の主であるかのように、すべての人から礼拝されることを望んだ。
  • 「自分以外に礼拝に値する者はいない」 と言うまでに至った。
  • 安土城内には神社がなく、信長は「自分自身が神体である」 と言っていた。
  • 安土城内に寺を建立し、自分の誕生日には、領内のすべての者にその寺への礼拝を強要した。

ほかにもフロイスは、"不幸にして哀れな人物"、"途方もない狂気"、"悪魔的な傲慢さ"などと、信長のことを散々に表現している。

意外な一面も・・

慈悲の心

信長が京都へ行き来していて、いつも同じ地にいる乞食に気づき、信長はその乞食のために木綿を与え、その町の人々にこれを預けさせて面倒をみるよう手配し、みなを感動させたという。(『信長公記』)

また、清洲を居城としていた頃のある年の夏の盆踊りのとき、信長は天人の仮装をして、小鼓を打ち、女踊りをしたという。
そして津島(=愛知県津島市)の年寄たちを身近に召し寄せ、「これはひょうきんだ」とか「似合っていた」などと、それぞれの者たちと打ち解けて親しく言葉をかけ、炎天下の中で団扇であおいでやったり、「お茶を飲まれよ」とすすめたりしたといい、彼らはみな感涙して帰ったという。 (『信長公記』)

ユーモアあふれる

信長の書状や手紙から、家中の物などにあだ名や仮名をつけていることがうかがえる。

信長がおねへ宛てた手紙などから、信長は秀吉のことを「禿鼠(はげネズミ)」と表現している。また、明智光秀のことを「きんか頭」と呼んだといい、光秀が禿げていたから、光沢があってつるつるしているきんか(金柑)に例えたとみられているようだ。 また、信長の嫡男信忠の幼名は奇妙丸というが、顔が奇妙であったことから信長がそのように名づけたとも言われている。


いかがだったであろうか。

これらが事実かどうかは史料の信頼性によるが、『日本史』や『信長公記』などは戦国当時のものであるため、これらに記された内容は比較的信憑性が高いといえるだろう。

このほか、以下の記事からも信長の人物像をとらえることができるので、あわせてオススメしたい。

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