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本圀寺の変と伊勢国平定(1569年)

永禄12年(1569年)1月5日、突如として将軍義昭のいる仮御所・京都の本圀寺が包囲された。敵は三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)である。

三人衆といえば、かつての三好長慶政権を支えてきた重臣だが、長慶の死後は13代将軍・足利義輝を討っており、義輝の弟である将軍義昭にとっては因縁の敵であった。そして彼らは前年に信長と義昭の上洛軍に京都で敗戦し、阿波へ逃亡を余儀なくされていた。

今回の本圀寺の包囲は京都の奪還を狙ってのことであった。

このときの信長は、本國寺の警護を明智光秀を中心とする近江・若狭の国衆に任せて、自らは本国の美濃へ帰国していたのである。

本圀寺の変(ほんこくじのへん)

  • 時期:永禄12年(1569年)1月5日
  • 場所:京都本圀寺
信長・足利義昭連合

  • 15代将軍義昭
  • 明智光秀
  • 細川藤孝
  • 三好義継
  • 伊丹親興
  • 池田勝正
  • 荒木村重
  • 他・・・

三好三人衆ら

  • 三好政康
  • 三好長逸
  • 岩成友通
  • 三好康長
  • 斎藤龍興
  • 他・・・

明智光秀や将軍義昭らは本國寺に立て篭る中、三好三人衆らは薬師寺貞春を先陣の大将として寺へ攻めかかってきた。

織田方に若狭衆の山県源内と宇野弥七という名の知れた2人の勇士がいた。彼らは大将の薬師寺貞春の旗本に切ってかかり、多くの敵に手傷を負わせるなど、堅固ではない本國寺で奮戦したが、最期は惜しくも槍に突かれて討ち死にを遂げてしまったという。

こうした奮戦もあって、負傷者や死人がごろごろと転がり、三好の軍勢は御所へ攻め入ることができなかった。そして、陥落に至らぬまま日暮れとなったため、三好勢は兵を収めて翌日の戦闘に備えることにした。

しかし、翌1月6日になると急報を聞きつけた畿内各地から足利・織田方の援軍が到着。細川藤孝、三好義継、池田勝正、摂津国衆の伊丹親興、荒木村重らが三好軍の背後から攻め寄せてきた。このため、不利を悟った三好勢は退却しようとするが、追いつかれて桂川河畔で交戦。結果的に優勢となった足利・織田方の勝利に終わり、三好方は高安権頭・林源太郎・小笠原信定らが討ち死に。

一方、同日に岐阜に急使が到着し、信長は本國寺が襲撃された旨の知らせを受けた。信長は直ちに上洛指令をだして京に向かうも、この日は珍しくあまりの大雪だったため、信長配下の人夫や下働きの者の中には凍死者が数人出たという。そうした中で信長は本来3日かかる行程を2日で走破し、1月8日に京都に到着したときには信長と同時に駆けつけたお供は10騎もなかったという。

本國寺に入った信長は御所が安泰な様子を見て、戦功のあった池田衆の池田正秀らを賞した後、本國寺防衛の脆弱性を危惧して二条城の造営を開始するのであった。

大詰めを迎える伊勢侵攻

一方で信長が上洛時と同時期から行なっていた伊勢国への侵攻もいよいよ大詰めを迎えていた。

伊勢は南朝以来の国司である北畠氏が最大勢力を誇っていたが、信長は伊勢の国人領主・神戸氏を降伏させた際に三男・三七郎(のちの織田信孝)を養子に送り込む等して北伊勢はほぼ手中に治めていたのである。

南伊勢は北畠氏が支配していたが、同年5月には信長重臣の滝川一益が源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じて、北畠具教の弟である木造城主・木造具政(こづくり ともまさ)を調略し、織田方に臣従させることに成功している。
具教は北畠氏の前当主で既にこのとき隠居していたものの、その実権を依然として握り続けていた人物である。

具教は同月12日に木造城を包囲して攻撃した(『桑名志』)が、織田方の滝川一益・神戸氏・長野氏の援軍もあって、8月に入っても木造城を落とせずにいた。

大河内城の戦い

  • 時期:1569年(永禄12年)
  • 場所:伊勢国・大河内城
織田軍

  • 織田信長
  • 丹羽長秀
  • 滝川一益
  • 池田恒興
  • 木下秀吉
  • 稲葉良通
  • 木造具政
  • 滝川雄利
  • 神戸具盛
  • 他・・・

北畠軍

  • 北畠具教
  • 北畠具房
  • 他・・・

こうした状況の中、上洛作戦を終えて美濃国に戻っていた信長は伊勢平定に向けて動き出した。

8月20日、総勢7万ともいわれる大軍を率いて岐阜を出陣し、桑名(三重県桑名市)まで進軍し、翌8月21日は鷹狩りをして駐留。そして8月23日には木造城に着陣し、この日は雨が降っていたために駐留した。

北畠の軍勢はこのとき既に木造城の包囲を解いて大河内城へ籠城していたといい、その兵数は約8千であったという。

8月26日、織田方の木下藤吉郎(のちの秀吉)が先陣を務めて阿坂城を攻撃、塀ぎわまで攻め寄せて浅い傷を受けて一旦後退したが、再度攻めたてて落城させた。続いて信長は他の支城を無視して北畠具教・具房父子が立て籠もっている大河内城へ進軍。8月28日には四方より大河内城を包囲し、城の周囲に鹿垣を2重3重にめぐらし、さまざまな方面からの道を遮断したという。

9月8日には、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通に夜討ちを命じ、3隊に分かれて攻めかかった。しかし、雨が降り出したために味方の鉄砲は役に立たなかったという。
翌9日には兵糧攻めで攻略するつもりで陣を置いており、滝川一益に命じて多芸の谷にある国司の館をはじめとして、その近辺をことごとく焼き払い、稲作をなぎ払って捨てさせたという。
籠城の用意も不備のままに大河内城内へと駆け込んだ者もあり、城内では徐々に餓死者も出始めるようになる。

そして10月3日、ついに北畠具教・具房父子は降伏し、和睦という形で決着がついたのであった。

この時の和睦の条件は以下、織田側に有利なものとなった。

  • 信長の次男である茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養継子とすること。
  • 大河内城を茶筅丸に明け渡し、具房、具教は他の城へ退去すること。

こうして信長は伊勢国をほぼ平定、のちに北畠具教を抹殺して完全に伊勢攻略を終えることになるのである。


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