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「姉川の戦い」信長、復讐に燃えた浅井討伐の第一戦
──元亀元年6月(1570年)

*姉川古戦場跡
信頼していた義弟・浅井長政に裏切られ、復讐することを誓い、すぐさま浅井討伐に向かった信長。 それが姉川の戦いのはじまりであった。

合戦の背景

そもそもこの合戦のきっかけとなったのは、織田信長がわずか2カ月ほど前の元亀元年4月(1570年)に朝倉氏の討伐に向かったことにあった。

朝倉氏は越前国を治めていた戦国大名で、この当時は11代目にあたる朝倉義景が当主を務めていた。
一方、信長は15代将軍義昭を擁立して既に上洛を果たしており、中央政権を掌握しつつあった。その中で信長は将軍の命令のもとに、幾内に程近い朝倉義景に再三にわたって上洛を要求したが、義景はこれを無視し続けていた。一説に義景が信長に従うのを嫌ったともいうが、これに腹を立てた信長がついに朝倉討伐を決意。越前に向けて兵を進めることになる。

当時、小谷城や横山城を拠点にしていた浅井長政は、信長の妹・お市の方と結婚しており、織田と浅井はいわば婚姻同盟を結んでいた。ただ、浅井氏と朝倉氏は昔から親交があったため、この同盟締結の際には”織田は朝倉に攻め込まない”という約束も交わされたとみられている。 だが、この約束を破って越前討伐に向かったため、浅井長政が謀反を起こし、信長は手痛い退却戦を経験することになったのである。(金ヶ崎の戦い

その後、信長は一旦美濃に帰国して軍備を整え、すぐさま長政に報復するために出陣することになる。一方、長政は信長との対決に備えて越前の軍勢を北近江に呼び入れ、長比(滋賀県東浅井郡湖北町)と苅安(滋賀県米原市)の2か所に砦を構え、一方の信長は浅井方の堀秀村、樋口直房を調略により味方に引き入れるのであった。

合戦の経過

そしていよいよ、信長が報復のために動きだす。

6月19日、堀秀村や樋口直房が織田に寝返ったことを知ると、長比と苅安の砦にいた浅井方の兵は動揺して退去。このため、織田勢は長比に入った。そして21日に信長は浅井の本拠・小谷城への攻撃を開始した。このとき、森可成・柴田勝家佐久間信盛・蜂屋頼隆・木下藤吉郎・丹羽長秀らに命じて小谷城の城下町を隅々まで焼き払わせたという。

だが、織田軍が狙っていたのは浅井氏の支城・横山城だったようだ。横山城と姉川を隔てた先に小谷城があったが、この小谷城は非常に守りが堅く、難攻不落の城として有名だったため、信長は横山城を最初のターゲットにしたということである。

こうして翌22日、信長は兵を引いて殿の部隊に簗田広正・中条家忠・佐々成政の3人に指揮をさせた。無事に撤退してこの日は八島(滋賀県長浜市)にて野営したという。

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24日、織田軍は小谷城の南に位置する横山城を四方から包囲、信長自身は竜ヶ鼻(滋賀県長浜市)に布陣、ここに徳川家康の5千ほどの軍勢も合流して同地に陣を構えたといい、横山城攻めが開始された。
一方、浅井方にも朝倉景健率いる8千の援軍が到着し、これに浅井長政も5~6千程の兵を連れて小谷城を出て、合計1万3千ほどになった浅井・朝倉連合軍は横山城の後詰のために小谷城の東にある大依山(滋賀県長浜市)に布陣するのであった。

浅井・朝倉連合軍は27日から28日未明にかけて南へと進軍し、浅井軍が野村に、朝倉軍は三田村にそれぞれ陣を敷いた。 こうして両軍が姉川を挟んで対峙する格好となった。朝倉氏の先制攻撃によって始まることになる。

夜が明けると、徳川軍が真向かいに布陣していた朝倉軍に攻撃を開始。一方、東の野村では浅井軍が信長のお馬廻衆と西美濃三人衆(稲葉良通・氏家卜全・安藤守就)らの織田軍に向かって突進したという。

織田・徳川連合は合わせて2万を超えるほどの兵力立ったのに対し、浅井・朝倉軍は1万3千ほど。 劣勢だった浅井・朝倉連合だが、一説に浅井軍は織田の陣営を次々と突き崩し、信長本陣にまで迫ったと伝わっている。
善戦する浅井軍ではあったが、衆寡敵せず。まもなくして勝敗はついた。先に朝倉軍が敗走すると、続いて浅井軍も崩れて北へ退却となり、織田・徳川連合軍はこれを追撃して一気に小谷城の近くまで迫り、城下に放火。だが、信長は小谷城を陥落させるのは困難と考えた横山城下へ引き上げていった。

結果的に織田・徳川の大勝となり、討ちとられた浅井・朝倉兵は8~9千を超えたという。また、横山城は降伏して織田の手に落ちたのであった。

戦後

数時間にも及ぶ合戦で、両軍の多くの武将が命を落としているが、現在の姉川付近に見られる「血川」や「血原」などの地名は、この姉川の戦いに起因すると言われている。

戦後、信長は横山城に木下秀吉を配置してこれを浅井攻めの前線基地とし、朝倉・浅井連合とたびたび交戦することに・・・。
この頃より15代将軍足利義昭を中心とした反織田勢力が結集され、浅井・朝倉に加えて本願寺勢力や甲斐の武田信玄も信長と敵対。いわゆる信長包囲網によって、しばらく信長は周辺勢力との戦いに手を焼くことになる。


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