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信長包囲網!三好三人衆・本願寺ら挙兵(1570年)

三好三人衆の挙兵

信長が上洛した際に京都を追い出された三好三人衆(三好政康、三好長逸、岩成友通)は、再び京の奪還を狙っていた。

元亀元年(1570年)6月、信長が義弟・浅井長政に対する報復戦(姉川の戦い)で近江にいて、京を留守にしていた頃、これを機とみた三好三人衆の1人・三好長逸が同月19日に摂津の荒木村重を調略、村重は池田城から主君・池田勝正を追放した。そして同年7月21日、三人衆は摂津国中嶋に進出して野田城・福島城を築城し、ここを拠点として反織田の兵を挙げたのである。

細川昭元軍や紀伊国の鈴木孫一等が率いる雑賀衆の援軍も続々と到着。『松井家譜』によれば、この時の総数は1万3千兵までに膨れ上がったという。この雑賀衆は水兵・鉄砲兵からなる傭兵部隊で三人衆に属していた安宅信康に雇われた私兵ではなかったかといわれている。

こうした動きに対し、織田方の松永久秀・久通父子はいち早く対応。大和信貴山城で戦闘準備を整えると、7月27日には信貴山城を出発して河内に入国し、三人衆軍の河内侵攻に備えたのであった。

以下、開戦にいたるまでの信長勢力と反織田勢力の動きをまとめた。

  • 【信長方】8月2日:足利義昭が畠山昭高に御内書を送り、信長と合力して紀伊・和泉国の兵を集結させて三人衆に対処するように命じる。
  • 【反織田方】8月17日:三好三人衆の軍勢が三好義継の居城・古橋城を攻撃。
  • 【信長方】8月20日:三好三人衆の挙兵の報を受けた信長は美濃国・岐阜城を出発し、横山(滋賀県長浜市)へ進軍。
  • 【信長方】8月22日:長光寺(滋賀県近江八幡市)に到着。
  • 【信長方】8月23日:本能寺(京都府京都市)に到着。
  • 【信長方】8月25日:本能寺をでて南方へ出動し、枚方(大阪府枚方市)の寺院に陣を構える。
  • 【信長方】8月26日:三人衆のいる野田城・福島城から南東5kmの天王寺に到着して陣を据える。

そしてついに、摂津で織田・足利義昭連合と三好三人衆ら反織田勢力との戦いがはじまる。

野田城・福島城の戦い(別名:第一次石山合戦)

  • 時期:元亀元年(1570年)8月26日-9月23日
  • 場所:摂津国野田城・福島城周辺
織田・足利義昭連合

  • 織田信長
  • 足利義昭
  • 松永久秀
  • 松永久通
  • 細川藤賢
  • 三好義継
  • 和田惟政
  • 他・・・

三好三人衆ら反織田連合

  • 三好三人衆
  • 本願寺顕如
  • 細川昭元
  • 三好康長
  • 安宅信康
  • 十河存保
  • 斎藤龍興
  • 鈴木重秀
  • 篠原長房
  • 三好政勝(途中寝返り)
  • 香西長信(途中寝返り)
  • 他・・・

反織田勢力のの総数は8千程とされている。顔ぶれに含まれている本願寺顕如は最初は中立を保っていたが、途中参戦してくる。なお、三人衆は浅井長政・朝倉義景・顕如らと開戦前から通じていたという説もある。

8月28日、三好政勝、香西長信らが織田軍へ寝返った。
9月3日、将軍義昭が奉行衆2千を率いて、細川藤賢のいる中嶋城へ着陣。

9月8日、信長は野田城・福島城の対岸に「楼岸の砦」と「川口の砦」を築かせてそれぞれに諸将を配備。野田城・福島城の西の対岸にあった浦江城を三好義継や松永久秀らの軍が落城させ、野田城・福島城を攻めるための砦とした。

このとき火縄銃以外にも大鉄砲が用いられたのではないかとされている。大鉄砲とは通常の火縄銃に比べて口径が大きく主に攻城戦や海戦に使用されたという。

その後、織田軍は城付近の堀を埋め、対岸に土手を築いて櫓を建てると、9月11日より野田城・福島城への攻撃を開始し、翌9月12日には鉄砲を使用した大規模な攻城戦を行なったとされている。このとき、雑賀衆・根来衆などの軍勢2万程の兵(そのうち鉄砲は3千兵程)が織田方に合流して遠里小野、住吉、天王寺に陣取ったという。

その後、織田の軍勢が畠中城も落城させると、たまらず三好三人衆らは和睦を申し入れたが信長はこれを拒否している。

本願寺勢力が反織田方として挙兵

しかし、この日の夜半から本願寺顕如が突如として挙兵した。

顕如はこの戦いで中立を保っていたが、過ぎたる9月6日に近江中部の本願寺門徒衆に檄文を送り、信長との戦いの準備をすすめていたといい、9月10日には浅井久政・長政親子へ書状を送っていたであった。

こうして戦況は一変する。

石山本願寺は福島城まで約4kmに位置し、顕如軍が参戦したことにより三人衆軍の士気は盛り上がり、翌13日早朝には織田軍がせき止めていた防堤を打ち破ったとされている。

浦江城だけではなく、野田城・福島城を周りを取り込んでいた砦も海水に浸かってしまったとされている。また『信長公記』によると同日夜には顕如自ら鎧を着て織田軍の本陣に襲いかかり、「楼岸の砦」と「川口の砦」には石山本願寺から鉄砲を撃ちかけたという。

9月14日は海水がなかなか引かず、翌15日から17日までは鉄砲による攻撃が出来ず大規模な戦闘にはならなかったという。

浅井・朝倉が近江坂本へ侵入

一方で、この機に乗じて三人衆と結ぶ浅井長政と朝倉義景の軍が琵琶湖西岸を南下して近江坂本に侵入した。近江坂本のやや南にある織田方の重要拠点・宇佐山城では信長家臣・森可成ら1000余りが守備していた。

9月16日、森可成は浅井・朝倉連合の進軍の報を聞き、少数の兵を率いて北の坂本口に出陣して浅井・朝倉連合を迎え討った。信長の弟・織田信治や青地茂綱らが救援として駆けつけ、前哨戦では幾人かの首を獲る勝利を収めたのであった。
しかし、9月19日には顕如の要請を受けた一揆軍が浅井・朝倉連合に加わると形成は一気に逆転、総勢3万もの大軍の挟撃を受けた織田軍は多勢に無勢であり、森可成・織田信治・青地茂綱らは奮戦するも、いずれも討ち死にを遂げたのであった(坂本の戦い)

これ以降、近江で浅井・朝倉連合との戦いが同年末まで続いていく(志賀の陣という)が、ちなみにこの坂本の戦いは "志賀の陣" のはじまりでもある。

9月20日、浅井・朝倉連合はその勢いで宇佐山城を攻撃した。すでに宇佐山城は主将を失っていたが、与力の武藤五郎右衛門や肥田彦左衛門が防戦に努め、奮闘して猛攻を防いだ結果、劣勢でありながら落城はかろうじて免れた(宇佐山城の戦い)

翌9月21日に浅井・朝倉連合は宇佐山城の攻略を諦めてそのまま京へ向かって進軍。醍醐、山科まで進んで周辺を放火して、京都まであと一歩に迫っていた。

9月22日、信長の元に、森可成らの討ち死にと、浅井・朝倉連合軍の京都への接近の報告が入った。 これに重臣の柴田勝家は信長に京都に戻るように進言すると、信長は摂津からの撤退を決断、9月23日に全部隊に撤退命令を出して将軍義昭と共にただちに京都に撤退した。

こうして摂津国の野田城・福島城周辺での攻防は終了となり、一方、信長の動きを知った浅井・朝倉連合は戦いを避けるために比叡山に上って立て籠もったのであった。

志賀の陣

  • 時期:元亀元年(1570年)9月16日-12月17日
  • 場所:近江国志賀(現:滋賀県大津市旧志賀町域)
織田・徳川連合

  • 織田信長
  • 徳川家康
  • 柴田勝家
  • 明智光秀
  • 佐久間信盛
  • 木下秀吉
  • 丹羽長秀
  • 他・・・

浅井・朝倉・延暦寺連合

  • 浅井長政
  • 朝倉義景
  • 他・・・

9月24日、信長は逢坂を越え、近江坂本まで出陣して浅井・朝倉の籠もる比叡山延暦寺を包囲。このとき信長は比叡山延暦寺に対し、「織田の味方をするならば、織田領の比叡山領を還付するが、それが無理ならせめて中立を保ってほしい。もしこのまま浅井・朝倉方に味方するならば焼き討ちにする」と通告したが、延暦寺からの返事はなかった。

このため信長は、翌9月25日には明智光秀、佐久間信盛を主将として比叡山を包囲。この後、長期に渡っての両陣営のにらみ合いとなるのであった。

10月20日には、しびれを切らした信長が義景に使者を送って決戦を促したが、この挑発は黙殺されたという。

各地では反織田勢力が挙兵

このように戦線が膠着する中、以下のように各地で反織田勢力が一気に挙兵した。

  • 幾内では三好三人衆が京を狙って蜂起したが、和田惟政が奮戦して食い止めた。
  • 近江国では六角義賢が一向門徒と共に南近江で挙兵し、美濃と京都の交通を遮断した。これに対し、横山城を守備していた木下秀吉、丹羽長秀らが出陣して11月16日までに六角軍や一揆勢を破って交通を回復させたという。また、徳川家の援軍も六角勢と繰り返し小競り合いを行なっていた。
  • 伊勢国では顕如の檄を受けて長島一向一揆が勃発し、11月21日には尾張国の小木江城が一揆勢に攻められ、信長の弟・織田信興は殺されてしまった。また、桑名城の滝川一益も敗走を余儀なくされている。

こうした状況にも信長は志賀の陣で浅井・朝倉勢と対陣中であったため、救援に赴くことはできなかったのである。

堅田の戦い

11月25日、堅田の地侍である猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に通じてきたので、これを好機とみた信長は家臣の坂井政尚らを派遣して堅田を確保しようとした。ところが朝倉軍はこれを察知し、翌26日には朝倉景鏡ら大軍を堅田に送りこんだ。

坂井の軍はこれに応戦したが、結局は多勢に無勢で織田軍は壊滅となって坂井政尚らは討ち死にした。

和睦

信長は各地での反織田勢力の動きに対処できなかったが、一方でこの長期戦が終わる兆しがみえはじめていた。

11月には反織田方の六角義賢・義治父子や篠原長房と和睦しており、さらに浅井・朝倉勢は兵糧が底をつく恐れ、朝倉に限っては豪雪で越前国へ戻れなくなるというリスクを抱えていたのである。
こうした状況で信長は朝廷と将軍・足利義昭を動かして講和を画策、そして12月13日についに和睦となった。

帰陣の保証のために双方の重臣の子が人質として交換されると、翌14日に織田軍が勢田まで退陣、15日には浅井・朝倉軍も比叡山を下って退陣、信長はようやく包囲網の窮地を脱したのであった。


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