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「小谷城の戦い」浅井父子、滅亡!
──天正元年8月(1573年)

北近江・浅井長政の本拠だった小谷城。「小谷城の戦い」は浅井長政がこの城で信長に攻め滅ぼされた戦いである。 織田と浅井は婚姻同盟関係にあったはずなのに、なぜ浅井は滅びたのだろうか?

合戦の背景

信長の妹・お市の方は、浅井三姉妹の母であり、浅井長政の妻としてよく知られている。信長と浅井長政は義兄弟にあたり、かつて信長が将軍義昭を奉じて上洛を果たしたときも浅井軍が従軍するなど、両家は有効関係にあった。

しかし、元亀元年4月(1570年)、信長が越前国の朝倉義景を攻めた際、長政が突如朝倉方に加担し、両者は断交。(金ヶ崎の戦い
実のところ、浅井は織田と同盟を結ぶ以前から朝倉氏とも同盟関係にあった。こうした背景から、この断交は長政の父・浅井久政の意向が働いたともいわれている。

以後、信長と浅井・朝倉連合はたびたび抗争を繰り広げるが、信長が浅井・朝倉を滅ぼすまでには3年余の期間を要すことになる。 というのも、やがて信長は将軍義昭とも不和になり、浅井・朝倉を含め、本願寺勢力・甲斐の武田信玄・三好三人衆等、将軍が結集した反織田勢力との戦いに発展していったからである。

だが、天正元年4月(1573年)に信玄が病没したのを機に、信長は7月に将軍義昭を追放、8月4日には一旦本拠・岐阜に帰陣。そして、ここで小谷城攻めのきっかけが訪れた。浅井方の山本山城の城将が信長に寝返ったとの知らせが信長の耳に入ったというのである。

朝倉を先に滅ぼす信長

こうして信長は8日の夜中に出陣、10日には小谷城下に到着。しかし長政が手を打たない筈もなく、同日には朝倉の2万もの援軍が近江入りした。信長は小谷城周辺で朝倉軍との戦いを先に開始し、やがて撤退する朝倉軍に追撃をかけ、13日から14日にかけての追撃戦で朝倉軍をほぼ壊滅させた。(刀根坂の戦い)

義景らは一足先に本拠・一乗谷へ退却、その後は一族の朝倉景鏡に再起を促されて越前北部へ向かうが、その景鏡に裏切りられて自害となった。なお、一乗谷城では残った少数の朝倉兵が奮戦したが、織田方に陥落させられている。

戦いの経過

朝倉を滅ぼした信長は、前年に織田方に寝返っていた朝倉旧臣で朝倉滅亡に一役買った前波吉継を守護代に任命。そして再び近江に軍を返すと、26日には虎御前山に入った。
ところで、信長が朝倉軍の追撃戦を行なっていたときも、特に浅井方に動きはみてとれない。山本山城の城将が織田方に寝返ったころ、浅井家中では裏切りが相次いだといい、おそらくは出撃して織田軍と戦うだけの余力がなかったのだろう。

まもなくして織田軍による小谷城攻撃が開始。27日の夜、羽柴秀吉はまず、浅井父子の居所をつなぐ小谷城の京極丸を占領して2人を遮断、双方を孤立無援に。そして次に浅井久政の小丸を攻め、久政を自害に追い込んだ。翌28日には信長自身が京極丸に入り、ついに浅井長政の籠もる本丸への攻撃も開始される。

一方、長政には妻子らを救うという最期の大仕事が残っていた・・。
━━ さすがの信長でも、妹と姪の命まではとらないだろう。━━

そう考えた長政は、お市の方と三人の娘たちを説得し、織田方の陣所へ送り届け、一方で嫡男の万福丸は家臣を付けて逃がしたのである。

9月1日、長政自害。北近江の浅井氏は三代で滅ぶことになった。

戦後

信長は9月4日に佐和山城に入り、6日に岐阜へ帰城。そして、小谷城一帯は功を立てた秀吉に与えることになった。なお、信長の浅井に対する積年の恨みは並じゃなかったようだ。

浅井父子の首は京都へ送られ、獄門に掛けられることになった。また、余呉方面にかくまわれていた万福丸は捕われて10月17日には関ヶ原の地で磔にして殺されたという。
翌年の正月には近隣諸国の大名や武将らが信長への挨拶に岐阜へ訪れ、招待の酒宴が開かれている。彼ら他国の衆が退出した後、信長は馬廻り衆と引き続き酒宴を行なったとき、朝倉義景・浅井久政・浅井長政の頭蓋骨を薄濃にしたものを膳に置いて肴にしたと伝わる。(『信長公記』)


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