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「志賀の陣」信長がもっとも苦しんだ?浅井・朝倉と長期の対峙戦
──元亀元年9-12月(1570年)

合戦の経緯

信長が摂津で三好三人衆と戦っている途中、本願寺勢力が反織田方として挙兵すると、これに乗じて彼らと結ぶ浅井長政朝倉義景の軍が琵琶湖西岸を南下して近江坂本に侵入。

合戦の経過

近江坂本のやや南にある織田方の重要拠点・宇佐山城では信長家臣・森可成ら1000余りが守備していた。

9月16日、森可成は浅井・朝倉連合の進軍の報を聞き、少数の兵を率いて北の坂本口に出陣して浅井・朝倉連合を迎え討った。信長の弟・織田信治や青地茂綱らが救援として駆けつけ、前哨戦では幾人かの首を獲る勝利を収めたのであった。
しかし、9月19日には顕如の要請を受けた一揆軍が浅井・朝倉連合に加わると形成は一気に逆転、総勢3万もの大軍の挟撃を受けた織田軍は多勢に無勢であり、森可成・織田信治・青地茂綱らは奮戦するも、いずれも討ち死にを遂げたのであった(坂本の戦い)

9月20日、浅井・朝倉連合はその勢いで宇佐山城を攻撃した。すでに宇佐山城は主将を失っていたが、与力の武藤五郎右衛門や肥田彦左衛門が防戦に努め、奮闘して猛攻を防いだ結果、劣勢でありながら落城はかろうじて免れた(宇佐山城の戦い)

翌9月21日に浅井・朝倉連合は宇佐山城の攻略を諦めてそのまま京へ向かって進軍。醍醐、山科まで進んで周辺を放火して、京都まであと一歩に迫っていた。

9月22日、信長の元に、森可成らの討ち死にと、浅井・朝倉連合軍の京都への接近の報告が入った。 これに重臣の柴田勝家は信長に京都に戻るように進言すると、信長は摂津からの撤退を決断、9月23日に全部隊に撤退命令を出して将軍義昭と共にただちに京都に撤退した。

こうして摂津国の野田城・福島城周辺での攻防は終了となり、一方、信長の動きを知った浅井・朝倉連合は戦いを避けるために比叡山に上って立て籠もったのであった。

9月24日、信長は逢坂を越え、近江坂本まで出陣して浅井・朝倉の籠もる比叡山延暦寺を包囲。このとき信長は比叡山延暦寺に対し、「織田の味方をするならば、織田領の比叡山領を還付するが、それが無理ならせめて中立を保ってほしい。もしこのまま浅井・朝倉方に味方するならば焼き討ちにする」と通告したが、延暦寺からの返事はなかった。

このため信長は、翌9月25日には明智光秀佐久間信盛を主将として比叡山を包囲。この後、長期に渡っての両陣営のにらみ合いとなるのであった。

10月20日には、しびれを切らした信長が義景に使者を送って決戦を促したが、この挑発は黙殺されたという。

各地では反織田勢力が挙兵

このように戦線が膠着する中、以下のように各地で反織田勢力が一気に挙兵した。

  • 幾内では三好三人衆が京を狙って蜂起したが、和田惟政が奮戦して食い止めた。
  • 近江国では六角義賢が一向門徒と共に南近江で挙兵し、美濃と京都の交通を遮断した。これに対し、横山城を守備していた木下秀吉、丹羽長秀らが出陣して11月16日までに六角軍や一揆勢を破って交通を回復させたという。また、徳川家の援軍も六角勢と繰り返し小競り合いを行なっていた。
  • 伊勢国では顕如の檄を受けて長島一向一揆が勃発し、11月21日には尾張国の小木江城が一揆勢に攻められ、信長の弟・織田信興は殺されてしまった。また、桑名城の滝川一益も敗走を余儀なくされている。

こうした状況にも信長は志賀の陣で浅井・朝倉勢と対陣中であったため、救援に赴くことはできなかったのである。

堅田の戦い

11月25日、堅田の地侍である猪飼昇貞・居初又次郎・馬場孫次郎が織田方に通じてきたので、これを好機とみた信長は家臣の坂井政尚らを派遣して堅田を確保しようとした。ところが朝倉軍はこれを察知し、翌26日には朝倉景鏡ら大軍を堅田に送りこんだ。

坂井の軍はこれに応戦したが、結局は多勢に無勢で織田軍は壊滅となって坂井政尚らは討ち死にした。

和睦

信長は各地での反織田勢力の動きに対処できなかったが、一方でこの長期戦が終わる兆しがみえはじめていた。

11月には反織田方の六角義賢・義治父子や篠原長房と和睦しており、さらに浅井・朝倉勢は兵糧が底をつく恐れ、朝倉に限っては豪雪で越前国へ戻れなくなるというリスクを抱えていたのである。
こうした状況で信長は朝廷と将軍・足利義昭を動かして講和を画策、そして12月13日についに和睦となった。

帰陣の保証のために双方の重臣の子が人質として交換されると、翌14日に織田軍が勢田まで退陣、15日には浅井・朝倉軍も比叡山を下って退陣、信長はようやく包囲網の窮地を脱したのであった。


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