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5分でわかる織田信長の生涯

織田信長(おだ のぶなが、1534-1582年)は尾張国の戦国大名で三英傑の一人。天下統一を目前にして家臣・明智光秀の謀反により、非業の死を遂げた。

信長誕生!

1534年(天文3年5月12日)、尾張勝幡城主・織田信秀と土田御前の間に次男として誕生。幼名は吉法師(きっぽうし)。

祖父・織田信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代・清洲織田氏(織田大和守家)に仕え、清洲三奉行(清洲織田氏に仕える奉行三家)でもあった。

また、父・信秀の代には次々と勢力を拡大し、名古屋に進出して那古野城(のちの名古屋城)を奪取するなど、主家やその主君である尾張守護斯波氏をも凌ぎ、国内の他勢力を圧倒する地位を築いていった。

そして1542年(天文11年)には嫡男の幼い吉法師を那古野城主とし、家老職として林新五郎、平手中務丞、青山与三右衛門、内藤勝介をつけた。そして翌年には古渡城を築き、信秀自信は居城したという。

信長は幼少から青年時にかけて奇妙な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称されていた(『信長公記』)。また、日本へ伝わった種子島銃に関心を持った挿話なども知られている。身分にはこだわらず、民と同じように町の若者とも戯れていた。

まだ世子であった頃、表面的に家臣としての立場を守り潜在的な緊張関係を保ってきた主筋の「織田大和守家」の支配する清洲城下に数騎で火を放つなど、父・信秀も寝耳に水の行動をとり、豪胆さを早くから見せていた。

竹千代(後の家康)との出会い

信長は、織田氏に護送されてきた松平竹千代(後の徳川家康)と少しの間、幼少期を共に過ごしている。

竹千代の父、三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠は駿河国の今川氏に従属しており、6歳の竹千代は今川氏の人質として駿府へ送られることとなるが、駿府への護送の途中に立ち寄った田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、尾張国の織田氏へ送られた。広忠は今川氏への従属を貫いたために、竹千代はそのまま人質として尾張国に留め置かれた。この時に織田信長と知り合ったと言われ、後の信長・家康連合の固い絆につながっていく。

元服と初陣

1546年(天文15年)、信秀の居城・古渡城にて元服し、"織田三郎信長" と名乗るようになる。翌1547年(天文16年)には、今川義元方の三河国(愛知県)吉良の大浜城の攻略のため、初陣を飾っている。

信長、濃姫を娶る

1548年(天文17年)、父・信秀と敵対していた美濃国の戦国大名・斎藤道三との和睦が成立すると、その証として道三の娘・濃姫と信長の間で政略結婚が交わされた。

当時、信秀は東に今川氏、西に新興の道三、さらに国内、とりわけ上川郡を中心に形成する岩倉城の織田伊勢守家を盛り立てる勢力と敵対しており、尾張国内の中小豪族たちも信秀の許から安祥落城以降は、次々と今川氏と道三側に寝返る状況下にあった。

信秀はこの状況を打破するためにも、北の脅威である道三と結び、東に日増しに強大な侵食を行なう今川氏勢力と対決しなければならなかったのである。

信秀の死去

1551年(天文20年)、父・信秀の死にともない、織田家の家督を継いだ。当時、尾張国は今川氏の尾張侵攻により守護の斯波氏の力が衰え、尾張下四郡を支配した守護代であった「織田大和守家」当主で清洲城主の織田信友が実権を掌握していた。

信長の父・信秀はその信友に仕える三奉行の一人に過ぎなかったにも関わらず、その智勇をもって尾張中西部に支配権を拡大しており、尾張国の覇権をめぐって争ったが、後に和睦している。

尾張国統一の戦いがはじまる!

家督争い

1552年(天文21年4月17日)、信秀に重用されていた鳴海城主の山口教継が駿河の今川義元に寝返った。戦いの行方は、元々は味方同士で顔見知りの間柄であったため、生け捕りになった者は交換し、敵陣に逃げ込んだ馬もお互いに返し合って帰陣し、勝敗は付かなかったという(赤塚の戦い)

天文同年8月15日、赤塚の戦いの勃発に乗じて織田信友の重臣・坂井大膳が坂井甚介・河尻与一・織田三位と謀り、信長方の松葉城とその並びにある深田城を襲撃すると、松葉城主織田伊賀守と深田城主織田信次(信秀の弟で信長の叔父)を人質とした。知らせを聞いた信長はすぐに出陣すると守山城の織田信光と合流し、信友軍を破っている(萱津の戦い)
信友はその後もさらに信長暗殺計画を企てたが、事前に斯波義統の家臣である簗田弥次右衛門に知られ、信長に密告されたために失敗し、家臣の那古野弥五郎の内通もあり、かえって清洲城に焼き討ちを受ける等、追い込まれていくことになる。

1553年(天文22年)には信長の宿老であった平手政秀が自害。これは尾張国内に中小勢力が分立し、信長と織田一族間の対立間にあって、政秀の立場を苦しめたことによるものであった(諸説あり)。
信長は翌年に沢彦宗恩を開山として政秀寺を建立し、政秀の霊を弔っている。

また、同年(異説では1549年(天文18年))に信長は正徳寺で義父である斎藤道三と会見し、信長の凛々しい振る舞いに驚いたという逸話がある。

1554年(天文23年)、今川義元が西三河から尾張へ攻勢をかけてきており、尾張国緒川城の水野信元の攻略のために村木砦を築いていた。水野信元から援軍の要請を受けた信長はこれに応じるために出陣、村木砦を攻めて激戦となったが、これに勝利した(村木砦の戦い)

また、天文同年に、織田信友が重臣・坂井大膳と図り、斯波義統を暗殺する事件が発生。斯波義統の子・義銀は信長を頼って逃亡してきた。信長はこれを保護し、柴田勝家が清洲へ向けて出陣、河尻左馬丞・織田三位 以下三十騎を討ちとった(安食の戦い)

1555年(天文24年)、生き残った坂井大膳の進言により信光の調略をするも、かえって信光の謀略にかかり、ついに大膳は今川氏に逃亡、信友自身は主殺しの咎によって信光に殺害された。
こうして「織田大和守家」は滅び、信長は那古野城から清洲城へ本拠を移し、尾張国の守護所を手中に収めた。これにより、織田氏の庶家の生まれであった信長が名実共に織田氏の頭領となる。

1556年(弘治2年4月)には、信長の義父で後ろ盾でもあった斎藤道三が、険悪となっていた嫡子の斉藤義龍と戦って戦死した(長良川の戦い)

このとき信長は道三救援のため、木曽川を越え美濃の大浦まで出陣するも、道三を討ち取って勢いに乗った義龍軍に苦戦し、道三敗死の知らせにより退却をしている。

信長は普段から素行が悪く「うつけ者」と呼ばれるほどであったのに加え、傅役の平手政秀の自殺もあったことから、家中からは当主としてふさわしくないと目されていた。
こうした中、信長では織田家をまとめられないと器量を疑問視した重臣の林秀貞(通勝)・林通具・柴田勝家らは、家中でも評価の高い信長の弟、信勝(信行)を誘って裏切らせようとする。これを察知した信長は、森可成・佐久間盛重・佐久間信盛らを味方につけ、両派は対立。

そして信勝派が弘治同年8月24日に挙兵するも敗戦して末盛城・那古野城に篭城。これに信長は城を包囲して両城の城下を焼き払うが、母・土田御前の嘆願もあり、清洲城で信勝と対面して赦免した(稲生の戦い)

戦後、信勝方の有力武将であった林秀貞と柴田勝家、津々木蔵人らは信長に謝罪して信長に忠誠を誓うこととなった。

更に同年、に庶兄の信広も斎藤義龍と結んで清洲城襲撃を企てたが、事前に察知したため信広挙兵を食い止め、投降してきた信広を許している。信広の人当たりのよさ、人望の厚さから家中の動向も考慮したといわれている。

尾張統一

1558年(永禄元年)、信長は同族の犬山城主・織田信清と協力し、旧主「織田大和守家」の宿敵で織田一門の宗家であった尾張上四郡(丹羽郡・葉栗郡・中島郡・春日井郡)の守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田家)の岩倉城主・織田信賢を破ってこれを追放(浮野の戦い)
また、このころ新たに守護として擁立した斯波義銀が、斯波一族の石橋氏・吉良氏と通じて信長の追放を画策していることが発覚すると、義銀を尾張から追放した。

一方で永禄同年、信勝が再び謀反を企てた。兄である信長にとってかわる野望を捨て切ることができなかった信勝は旧家老の柴田勝家を味方に引き入れようとした。しかし、勝家はただちに信長に報告し、事態を悟った信長は仮病をつかって信勝を清洲城に見舞いに来させるように誘い出し、城中で殺害したとされている。(1557年(弘治3年)の説もある)

こうして翌1559年(永禄2年)までに尾張国の支配権を確立した信長は、自らが正統な尾張の統治者であることを天下に示し、これを認めてもらうために上洛を決めた。永禄同年2月2日、26歳であった信長は100名ほどの軍勢を引き連れて上洛し、室町幕府13代将軍・足利義輝に謁見して、尾張統一の将軍のお墨付きを得るのであった。



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