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織田信秀

織田信秀は織田氏の庶流でありながら、やがて主家である尾張守護代を凌ぐほどの勢力にまで押しあげた信長の父である。

信秀の誕生と弾正忠家の台頭

信秀は永正5年(1508年)ころ(※同7年や8年説もある)、織田氏の分家にあたる弾正忠家の嫡男として誕生。父は織田信定、そして母は織田良頼の娘であるという。

織田氏は、かねてから尾張守護代を務めていたが、応仁の乱以降には2つに分裂し、このころには岩倉織田氏(伊勢守家)が尾張上四郡を、清洲織田氏(大和守家)が尾張下四郡をそれぞれ支配して互いに対立するという混乱期にあった。

尾張守護は斯波氏、尾張守護代は清洲織田氏が務めており、弾正忠家は清洲織田氏に仕える清洲三奉行の一被官にすぎなかった。ちなみに清洲三奉行とは、尾張守護代の織田達勝に織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠という三人の老臣がいたことに由来する。

当時、斯波氏は遠江守護の座を斯波氏から奪った今川氏親と対立し、当主の斯波義達は遠江遠征を繰り返して今川氏と戦争状態にあった。やがて斯波氏は劣勢にたたされ、永正13年(1516年)には大敗を喫して義達自身が捕らえられ、助命されたものの剃髪を強いられて尾張国に送り返されるという屈辱を味わった。

この敗戦によって斯波氏の権威は地に落ち、従属していた織田氏や尾張国衆らは離れていったために斯波氏は没落となった。

こうした中、尾張国内では守護の斯波氏に代わって織田氏が実権を握ることになるが、その中でも勢力を増していったのは岩倉織田氏でも清洲織田氏でもなく、清洲三奉行家、とりわけ弾正忠家だったのである。

信定による津島支配と信秀の家督相続

弾正忠家の台頭は信秀の父・織田信定が津島を掌握したことに起因する。

当時、津島は伊勢湾貿易の要衝の港町であり、かつ、広く信仰されていた牛頭天王社があったことで以前から大勢の参詣者を集める町でもあった。こうした背景から津島の土豪らは経済力があり、強固な共同体をつくり上げていた。
こうした地を治めて経済的な基盤を得た信定は、遅くとも大永年間(1521-28年)に勝幡城を築城して居城にしたというのである。

この時期は史料が少なく、尾張国の情勢の詳細はわからないが、大永7年(1527年)6月24日に信秀の母が死去し、同時期に信秀が家督を継いだとみられている。

那古野城を奪取し、居城とする

信秀は享禄5年(1532年)、今川氏豊の居城・那古野城を策略によって奪い取り、氏豊を追放したという(『名古屋合戦記』)。

信秀は氏豊とは連歌を通じて清須で知りあい、当初は連歌の付合いの句をもって互いの使者を行き来させていたが、あるとき信秀が那古野城に招かれてからは、信秀は那古野城に滞在して連歌・茶の湯を楽しむほどの仲になっていった。 そして氏豊が信秀の人柄を信用するようになっていたところ、いつものように那古野城に滞在していた信秀は策をもって城を奪い取ったということのようだ。

ただし、時期についてはおそらく間違っている。

それは翌年に信秀と氏豊が連歌の催しで会っていることからわかる。信秀が那古野城を領している事蹟は天文7年(1538年)に確かな史料で確認できるので、那古野城奪取と居城移転はこの年かそれより少し前であろうか。

その連歌の催しだが、『言継卿記』によると、信秀は天文2年(1533年)に公家の山科言継や飛鳥井雅網らを尾張に招いて鞠会や歌会を催したという。

『言継卿記』にある内容をみると、信秀が尾張守護代と対等な力をもち、財力も蓄えている様子がうかがえるので、以下にそのポイントをまとめてみた。

  • 前年(=天文元年(1532年))まで信秀は清洲織田氏や藤左衛門家と交戦状態にあった。
  • 約一か月半にわたり、勝幡城や清須城で連日のように鞠会が催され、歌会も何度かあった。
  • 勝幡や清須には滞在する公家のほか、織田一族や尾張国人ら大勢が集まった。
  • 信秀と尾張守護代の織田達勝は互いに清須や勝幡を行き来していた。
  • 信秀は藤左衛門家へも挨拶に出かけている。
  • 達勝は勝幡城に赴いて信秀への礼にきている。
  • 達勝は信秀が清須城に滞在した際に手厚いもてなしをしている。
  • 那古野今川氏の当主・竹王丸(今川氏豊)もこの催しに何度か顔を見せている。
  • 勝幡城内の屋敷に招かれた公家らはその作りに目を驚かせたという。

松平・今川・斎藤氏との抗争

天文3年(1534年)には嫡男・信長が誕生。信長の生誕地については、この時期に那古野城を領していたか不明のため、勝幡城と那古野城の2つの見解がある。

このころ、隣りの美濃国では斎藤道三が台頭し、東の三河国では松平氏が幅をきかせており、さらに東には今川氏が駿河・遠江の2か国を領する戦国大名として君臨していた。

天文4年(1535年)にはその松平氏が守山城攻略に向けて尾張へ攻め込んできたが、出陣してまもなく、松平当主・清康(家康の祖父)が突如家臣に討たれて横死する事件が勃発した(森山崩れ)。
これは背景に松平庶流の松平信定の策略があったといわれており、信秀はすぐさま出陣し、松平居城である西三河の岡崎城に迫ったという。

ところで同年には古渡城が築城され、信秀は居城を那古野城からここへ移したと伝わっている。
ただし、この時期に那古野城を領していたかは定かでないため、歴史研究家の谷口氏は古渡城の築城・居城移転は天文13-17年(1544-48年)頃ではないかとみている。

清康の嫡子・広忠(家康の父)は清康が討たれたときはまだ10歳であり、一時的に松平氏の分家である信定に岡崎城を取られる形となってしまうが、天文6年(1537年)には今川義元の援助を受けて岡崎城に帰参し、松平当主となってスタートすることになった。

西三河侵攻と安祥城攻略

こうした中、信秀は天文9年(1540年)6月に西三河へ侵攻を開始して、松平方から安祥城(現愛知県安城市)を奪取して三河支配のための拠点とするのである。
安祥城は代々松平氏の居城として使われ、松平清康が岡崎城に移るまでは一族発展の拠点となった城であった。

以後、この安祥城を巡って織田方と松平・今川方の激しい戦いが繰り返されることになる。

天文11年(1542年)8月、信秀の西三河侵攻に危機感をつのらせた今川義元が動きだした。安祥城へ向けて今川・松平連合軍が攻め寄せてきたのである。
このとき信秀は弟の信康・信光・信実らとともに安祥城から出撃し、小豆坂の地で激しく交戦している(第1次小豆坂の戦い)

美濃・稲葉山城攻め

一方で信秀は越前の朝倉氏と共同で美濃国の斎藤道三を攻めている。

天文13年(1544年)9月に美濃国へ侵入して支隊に大垣城を陥落させると、続いて道三の居城・稲葉山城を攻撃した。しかし、ここで道三方の反撃にあって木曽川へ逃れると、さらに追撃を受けて多大な損害を被ったという。

この戦いは信秀の弟・信康や清須三奉行の一人・織田因幡守ら多くの家臣も討死しており、信秀にとっては屈辱的な大敗となった。 戦後、精神面を心配された信秀だが、その様子は「敗軍無輿の気色も見えず」と伝わっているので、どうやら特に敗戦を気にかけてはいなかったようである。

安祥城を奪われ、三河から撤退

天文16年(1547年)に信秀は古渡城を破却し、新たに末盛城を築いてこれを居城としている(『信長公記』)。

一方で信秀のもとに突如、松平広忠の嫡男・竹千代(のちの家康)が送られてきた。

  1. 信秀との戦いにたじろいだ広忠が今川義元に援助を要請。
  2. 義元が人質を要求。竹千代が駿府に送られることになる。
  3. 竹千代を駿府に護送途中、田原城主・戸田康光の裏切りで尾張国へ進路変更される。
  4. 戸田康光は信秀に竹千代を引き渡す。

つまり、竹千代は信秀に売りとばされたのである。
信秀は竹千代を盾にして、今川と断交して味方になるよう広忠に迫ったが、これは拒絶されている。父に見捨てられた竹千代は一時的にではあるが、織田方の人質となった。

同年11月には美濃大垣城の奪還に道三が攻め込んでくるが、信秀はこれを知って同城の救出のために出陣して道三を撤退させた。しかし、この出陣で留守とした居城・古渡城に清洲織田氏の軍勢が攻撃をしたという(『信長公記』)。
信秀と尾張守護代・清洲織田氏は和睦後は協力関係にあったが、この時点では敵対関係に入っていたようだ。

天文17年(1548年)3月には再び、小豆坂の地で信秀と松平・今川連合との間で合戦が行なわれようとしていた。
義元が太原雪斎を大将として軍勢を差し向けると、信秀も出陣して笠寺・鳴海→安祥城→上和田砦と進軍していき、小豆坂ではち合わせした。このとき、たがいに敵状を知らずにばったりと出会ったため、両軍は互いに動転したといい、まもなく両軍入り乱れての激戦になったという(『三河物語』)。

この戦いは最終的に織田方が総崩れとなって敗れ、信秀は子の織田信広を安祥城に置いて清洲に戻っていった(第2次小豆坂の戦い)

一方でこの年の秋頃、美濃の斎藤道三と和睦し、嫡男信長と道三娘の濃姫を縁組みさせたという(『土岐累代記』『信長公記』ほか)。

天文18年(1549年)、松平当主の広忠が急死すると、今川義元がすぐさま太原雪斎らの軍勢を派遣して岡崎城を接収している。そして、まもなくして織田信広の守備する安祥城が雪斎の軍勢から襲撃を受けると、同年11月にはついに信広が捕えられて陥落してしまうのであった。

ただ、信広はまもなく竹千代との人質交換によって無事に織田家へ戻ってこれたが、安祥城を失ったことで織田方の西三河の支配権はほぼ失われることになったのである。

ところで信秀の対外抗争の時期に関しては諸史料で差異も多く、以下のように異なる説や幅をもたせた解釈が多くあることは注意してほしい。

  • 信秀の安祥城攻略時期は天文13年(1544年)という説。
  • 天文11年(1542年)の第1次小豆坂の戦いは存在しないという説。
  • 稲葉山城攻めは2度目となる天文16年(1547年)にも存在したという説。
  • 斎藤道三による大垣城の奪還戦は天文16-17年(1547-48年)頃であると推察されていること。
  • 信長と濃姫の婚約は天文17-18年(1548-49年)頃であると推察されていること。
  • 末盛城の築城は天文18年(1549年)頃であると推察されていること。

このように信秀は尾張国の実権を握って勢力を拡大させたが、結局尾張統一までとはいかなかった。
そして天文21年(1552年)3月に末盛城で病没し、嫡男の信長にその後を託すことになったのである。


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