あなたの好きな戦国武将が詳しく丸ごと早わかり! 最大級の戦国まとめサイト

織田信忠

織田信忠(おだ のぶただ、1555?-1582年)は織田信長の嫡男で、信長の生前に家督を譲られるも、本能寺の変で信長と同じく自害に追い込まれた。

経歴

1555-57年(弘治元-3年)の間に織田信長の長男として誕生。顔が奇妙であったことから幼名を "奇妙丸" とされたという。

信長が武田信玄と婚姻による同盟を結んでいた頃、この同盟関係を補強するため、奇妙丸と武田信玄五女・松姫との婚約が成立した。

初陣

信玄が1572年(元亀3年)に西上作戦を開始して徳川家康の領地へ攻め込んだことで織田・武田間の同盟は破棄となり、松姫との婚約も解消となった。この年に元服して浅井長政攻めで初陣を飾っており、若干16歳であった。

1573年(元亀4年)からは "勘九郎信重" と称しており、このころから尾張の社寺に対しての禁制などの文書がみられ、尾張国の支配権の一部を与えられたようである。

信長の後継者へ

以後、信長の後継者としての道を歩んでいく。

1574年(天正2年)から早くも信長の後継者としての特別な扱いがみてとれる。

同年の信長の主要な将のほとんどが参陣した伊勢長島一向一揆攻め(第三次長島侵攻)に参加したが、このとき陣容は3つに分けられ、信忠は信長本隊や柴田勝家や丹羽長秀などの主力武将とは異なる陣に属した。
つまり、この時点で信忠軍団が形成されており、父・信長と離れて単独で軍事行動をまかされたことになる。

1575年(天正3年)には武田勝頼との長篠の戦いに参戦し、その後の岩村城の戦いでは信長から軍を預かって総大将として出陣し、武田家臣・秋山虎繁の占拠する東美濃の要・岩村城を陥落させる大功を挙げた。

こうして同年11月に岐阜に凱旋した信忠は正室・濃姫の養子とされ、信長から織田家の家督と美濃・尾張の織田家の領地を譲りうけたのであった。

また、この年に官位は出羽介から秋田城介に、正五位下に叙任している。

総大将として戦を重ねる

1576年(天正5年)の雑賀攻めで功を挙げると、同年の松永久秀を討伐した信貴山城の戦いでは総大将を務め、信貴山城を落とした功で従三位左近衛権中将に叙任した。このころより、信長に代わって合戦で総大将を務めるようになる。

その後も上月城の戦い(1578年)での救援や、荒木村重の謀反による有岡城の戦い(1578-79年)など、多くの戦に参戦している。

1580年(天正8年)には尾張南部を統括していた佐久間信盛と西美濃三人衆のひとり安藤守就が追放されたことで、信忠の美濃・尾張における支配領域が広がった。

武田を滅ぼす

1582年(天正10年)の甲州征伐(1582年)においては先鋒の大将を務め、滝川一益を軍監として伊那方面から進軍すると、次々と武田の支城を攻略していき、ついには武田勝頼を天目山で滅ぼした。

後から父・信長率いる本隊が続く予定であったが、勝頼が自害した時点で信長本隊はまだ、武田の領地にまで進軍していなかったという。

戦後には恩賞として信長から旧武田の地が滝川一益、河尻秀隆、森長可ら信忠軍団の面々に与えられ、信忠軍団の支配地は美濃・尾張に加えて甲斐・信濃・上野と東国へ拡大されることになった。

信長の後継者として天下人になる可能性もあった信忠であったが、わずか数カ月後にその可能性はあっけなく断たれた。

最期

信忠は武田征伐を終えて、中国攻めの最中の羽柴秀吉の救援のために京都の妙覚寺に滞在していた中で本能寺の変が勃発した。

これを知った信忠は本能寺に信長救援に向かったが、信長の死を知ると逃げもせず、光秀を迎え撃つべく二条城に移動して籠城したという。

京都から脱出できる可能性があったにもかかわらず、籠城を選択して光秀の軍勢を前に衆寡敵せず、自害して果てたのであった。

略年表

  • 1555-57年(弘治元-3年)、誕生。幼名は奇妙丸。
  • 1567年(永禄10年)、信玄五女・松姫との婚約が成立。
  • 1572年(元亀3年)、松姫との婚約解消。元服してはじめ勘九郎信重を名乗り、のちに信忠と称す。
  • 1574年(天正2年)、岩村城の戦い、伊勢長島攻めに従軍。
  • 1575年(天正3年)、長篠の戦いに参戦、その後の岩村城の戦いは総大将として出陣。
  • 1576年(天正4年)、岐阜城主となる。同年、正五位下に叙せられ、出羽介、次いで秋田城介に任官する。
  • 1577年(天正5年)、雑賀攻めで功をあげ、信貴山城の戦いで総大将を務める。その功で従三位左近衛権中将に叙任。
  • 1578年(天正6年)、上月城救援で総大将を務める。
  • 1582年(天正10年)、甲州征伐では総大将を務める。その後、本能寺の変で自害。享年26。


 PAGE TOP