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「織田信孝(神戸信孝)」信長の三男。兄との差別を糧にのし上がる!?

織田信孝の肖像画
母が異なるために2人の兄とは大きく差別された三男信孝。しかし、信長に認められて四国征伐で大将に抜擢され、信長死後の清洲会議でも、後継者として推挙されるまでの人物に変貌を遂げた。織田の覇権を狙う秀吉にとって邪魔な存在となった彼の末路は?

神戸氏に養子として送りこまれる

信孝は永禄元年(1558年)織田信長の三男として誕生。幼名は三七郎。 だが、実際には信長二男の織田信雄より20日ほど先に生まれている。信孝の母が側室で身分の低かったことから、「事実上の正室といわれる信雄の母に遠慮した」、「信長の耳に入るのが遅れた」、などの説がある。

永禄11年(1568年)2月、父信長が北伊勢に攻め込み、長野工藤氏や神戸氏を降伏させた。神戸氏は、鎌倉御家人の関氏の庶流にあたり、南北朝期より伊勢国に土着したのにはじまって、次第に北伊勢を中心に勢力拡大し、本家の関氏に並ぶほど強大になっていた一族であった。父信長はその神戸氏との戦いにおける和睦条件を利用し、11歳の信孝を神戸具盛の養子として送り込んだのである。

その後、信孝や信孝の側近らは神戸具盛と不和になって冷遇されたとみられ、これに怒った信長が元亀2年(1571年)に具盛を幽閉。翌元亀3年(1572年)に信孝が神戸氏の家督を継ぐと、これに反発した神戸氏家臣の粛清も同時に行われ、多くの者が誅殺・追放されたという。家督相続後は信長の命により、"神戸検地" と呼ばれる検地を行う等、領地経営に力を注いだ。

天正元年(1573年)に神戸氏と同族である関氏も追放になると、信孝は伊勢の鈴鹿・河曲2郡を直接支配するようになる。なお、この年以降に長兄の織田信忠が元服しているため、信孝の元服もそれ以降とみられている。

信孝の軍事行動として初めて史料に登場するのが、天正2年(1574年)長島一向一揆殲滅戦である。
以後は連枝衆として各地を転戦、天正3年(1575年)越前一向一揆討伐、天正4年(1576年)の三瀬の変、天正5年(1577年)の紀州征伐、天正6-7年(1578-79年)有岡城の戦いなど、多くの合戦に参加している。

父に認められ、四国攻め総司令官に抜擢!

信孝は長兄の信忠や次兄の信雄と比べて、官位や待遇などからみても明らかに冷遇されていた。

官位をみると、天正5年(1577年)に信孝は従五位下に叙位、侍従に任官しているが、このとき既に兄の信忠は従三位左中将、信雄は従四位下左中将となっていた。また、天正9年(1581年)の京都馬揃えにおいては、行進の順番と率いた騎馬の数でみると、信孝は以下のように4番目に位置していた。

  • 1番:織田信忠80騎
  • 2番:織田信雄30騎
  • 3番:織田信包10騎
  • 4番:神戸信孝10騎
  • 5番:津田信澄10騎

このように信孝差別扱いを受けていたが、それでも父信長に特別視されていたという。それは信長の四男以下をみると、彼らは信孝に遠く及ばない扱いだからである。
また、以下のように史料に残る信孝の評価はかなり高い。

  • 「前途有望な青年」(『イエズス会日本通信』)
  • 「思慮があり、諸人に対して礼儀正しく、また大いなる勇士である」(『イエズス会日本通信』)
  • 「智勇、人に越えたり」(『柴田合戦記』)
  • 「文武の達人にして、文学を用い歌道を好む」(『勢州軍記』)

天正8年(1580年)には、村井貞勝を補佐して在京し、禁裏との交渉を担ったり、伊勢国で神戸城を改築するなど、行政官としての活躍もみられるようになる。

天正10年(1582年)正月には武田家臣の木曾義昌が織田家に転じ、このとき信孝が仲介役を務めたとされる。これがきっかけで2月から織田軍団による甲州征伐が行なわれ、武田家は滅ぶことになった。
一方、信長はこれまで友好関係にあった四国の長宗我部氏に対しても、2月より三好康長を派遣して四国へ軍事介入しており、5月7日には四国攻めが決定、信長の朱印状を通じて信孝がその総司令官に命じられることに…。この大役に信孝自ら志願したのか定かでないが、いずれにしろ彼の念願がかなったわけである。
なお、このときの朱印状には、四国平定後の予定として、三好康長の養嗣子となることや、讃岐一国を信孝に与えること等も盛り込まれていた。

天下人の野望を果たせなかった最期

四国討伐のために編成された信孝軍団は、副将に織田四天王の一人・丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らが付けられ、6月3日に出発する予定であった。しかし、その前日、6月2日が本能寺の変だったため、四国攻めは中断となって信孝軍団も幻に終わることになる。

信長が明智光秀の謀反に倒れたとき、信孝は織田重臣らの中で本能寺に最も近い位置にいたが、諸国からの寄せ集めの兵だったことから逃亡兵が相次いで信孝は成す術もなかったという。信孝は単独で明智討伐に向えず、羽柴秀吉隊との合流を待つしかなかった。それでもその間に長秀と相談して光秀の娘婿・津田信澄を共謀者とみなして殺害するなど、父の仇討ちに向けて意気盛んであったようである。そして、秀吉軍と合流後、山崎の戦いに参戦して光秀を討った。

このときの光秀討伐軍は名目上は信孝が総大将とされたことから、後継者と目されていたかもしれない。その直後の清洲会議で信孝は後継者候補として柴田勝家に担ぎ出されるが、秀吉が推薦した信忠の遺児・三法師が後継者となっている。その結果、信孝は三法師の後見役とされ、信長とともに散った兄・信忠の領地の美濃国を与えられるにとどまった。この会議で重臣筆頭の地位にあった柴田勝家は秀吉にとって替わられ、織田家中で秀吉と勝家による権力抗争が始まることとなる。

秀吉と勝家は互いに周囲の勢力を取りこもうと盛んに調略を行なう中、信孝は勝家に味方して秀吉と対立。同年末には秀吉軍に岐阜城を囲まれ、信孝は降伏して三法師を秀吉に引き渡した挙げ句、母と娘らを人質として提出させられている。

天正11年(1583年)賤ヶ岳の戦いが勃発すると、信孝は再度挙兵して勝家に味方したものの、秀吉に味方した兄・信雄によって岐阜城を包囲され、さらに勝家が敗北して自害。

信孝も降伏を余儀なくされ、壮絶な最期を遂げることに…。その最期というのは、切腹の際に腹をかき切って腸をつかみ出し、床の間にかかっていた梅の掛け軸に投げつけたと伝わる。


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